「『この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?』」。
迷子専門の米国人探偵ディスコ・ウェンズデイは、東京調布市で、六歳の山岸梢と暮らしている。ある日、彼の眼前で、梢の体に十七歳の少女が<侵入>。人類史上最大の事件の扉が開いた。魂泥棒、悪を体現する黒い鳥の男、円柱状の奇妙な館に集いし名探偵たちの連続死――。「お前が災厄の中心なんだよ」。ジャスト・ファクツ! 真実だけを追い求め、三千世界を駆けめぐれ、ディスコ!!
今とここで表す現在地点がどこでもない場所になる英語の国で生まれた俺はディスコ水曜日。Disとcoが並んだファーストネームもどうかと思うがウェンズデイのyが三つ重なるせいで友達がみんなカウボーイの「イィィィィハ!」みたいに語尾を甲高く「ウェンズでE!」といなないてぶふーふ笑うもんだから俺は…いろいろあって、風が吹いたら桶屋が儲かる的に迷子捜し専門の探偵になる。俺のキャデラックのボディには俺の名前と事務所の住所と電話番号の上に『ベイビー、あんたが探してんのは結局あんた自身なのよ』って書いてある。
――上巻 9ページより
以前、『ビッチマグネット』という本で舞城王太郎作品にブログで触れた。↓
ここで僕は、こんなことを書いている。
舞城作品は(著作をすべて網羅しているわけではないので、こういうことを言うのはお門違いかもしれないが)長い年月をすべて一人称視点の現在時制で書かれている、というのが特徴だと思う。回想形式や第三者視点の物語ではない。だから、(『ビッチマグネット』に限ると)小説の中で、香緒里は小説の進行と共に成長している(変化している)。小説に書かれている心情描写は小説内の「今」香緒里が思っていることが書かれているのだろう。だから、その小説の読者も香緒里の成長(変化)をリアルタイムで追うことができる(追うことしかできない)。当然のように、前述の香緒里のスタンスは変わっていく。
え、なんか当たり前じゃね?「私」視点の物語なら、ずっと”現在進行形”でしょ?
でも、わざわざこんなことを書いたということは、舞城王太郎の描くその”現在進行形”性に違和感を覚えていたからにちがいない。多くの人が読み、手法としてきた一人称視点の掟から外れたことを、彼は行っているはずなのだ。
そして、なにをしているのか、『ディスコ探偵水曜日』を読んで分かった。ような気がする。本作品で主人公の、まさしく主人公のディスコ・ウェンズデイは時間と空間を自在に跳躍し、事件の解決に向かうわけだけど、舞城作品の地の文は、時間と空間を(とりわけ時間を)意識的に操っている、ように思える。
よく言われる舞城王太郎の文章(文体?)のドライヴ感。読んでいるとジェットコースターに乗っているように感じられるわけで、めちゃめちゃ振り回されることは必至なのだ。そしてそれがなにに起因するかというと、冒頭引用にもそれは現れているように思われる。どこの部分か。
「ウェンズでE!」といなないてぶふーふ笑うもんだから俺は…いろいろあって、風が吹いたら桶屋が儲かる的に迷子捜し専門の探偵になる。
「ウェンズでE!」って言われて笑われているディスコと、迷子捜し専門の探偵になるディスコとでは、時間軸に置き換えると前者が過去の出来事で後者がそれよりも後の出来事ってことになるけれども、ここでは、一文で(…を挟むけれども)しかも同じ時制で書かれる、現在という時制で。そのことによって作中の人物がタイムスリップしたような感触を、ひいてはジェットコースターに振り回されているような感触を読み手に抱かせるのではないか。
はたから見ていれば、同じ時制で書かれているにもかかわらず、時間や空間が引き伸ばされ収縮し、そういう文章を脈絡のない文章という。まるで、脳内で整理される前の「想い」をダダ漏らしているかのようだ。しかし、その「想い」も言葉で象られているのだ、ということにふと気づく。
今作で繰り返し繰り返し命題が「全てに意味がある」というものであり、パインハウスという意味が無限に増殖する奇ッ怪極まりない建物におきる殺人事件に巻き込まれることでその命題にたどり着く。無数の意味から無限の文脈が生まれ、そこが”本当に”世界の中心となっていく様は圧巻であるが、そこはぜひ上巻第二章「ザ・パインハウス・デッド」と中巻第三章「解決と〇ん〇ん」を読んでいただきたいところ。
なにげなくディスコが脳内をダダ漏れで表出させていたその言葉にさえ意味が付与されてしまう。上巻第一章「梢」はその脳内ダダ漏れが延々と続き冗長さをかんじることも多いが、「全てに意味がある」わけで、不可思議な出来事もしっかりと「意味」が付与されてある未来に回収されていく。
言葉にしてしまうという暴力。これは暴力なのだろう。
言葉にするという行為でしか紡げない「小説」という媒体でその暴力に立ち向かう。舞城王太郎は『ディスコ探偵水曜日』でその不可能にしか思えないことと対峙する。だからこそメタな仕掛けを幾重にも施し、高次元なものを定義づけしていく。
そして、舞城王太郎=踊場水太郎=ディスコ・ウェンズデイが定義した最高次元は《好き嫌い》だ。
「《好き嫌い》が世界の中心なんだ。そこから《倫理》も《美的感覚》も生まれるし、《知》も《意識》も制御され、《世界》の形ができあがる」。そして自分の持つ《好き嫌い》の感覚から生まれる《かくあるべし》《こうあってほしい》《こうなってほしい》という気持ちは、つまり《意志》なのだ。ならば《意志》のあるところに《出来事》が生じる以上、この世の全ては《好き嫌い》に誘導されるのだ…その《好き嫌い》の強さに応じて。
――下巻131ページより
ここまでくればもうストレートだ。佐々木敦も『ニッポンの文学』で言っているように舞城王太郎の伝えるメッセージは単純。「愛」と「勇気」なのだ。
『好き好き大好き超愛してる』にて
愛は祈りだ。僕は祈る。
と書きだした「僕」がそこにはいる。愛せよディスコ。世界を救え。
ディスコは「愛」によって”国生み”を果たす。いや、「愛」によって生み出された”国”を見つけだしたというべきか。そういう意味で、『ディスコ探偵水曜日』は現代の神話なのだ。世界の中心のパインハウスに増殖していた意味は世界各地の神話の数々であり、下巻第四章の題名は「方舟」。
全てを超越する《愛》と、そしてそこから自然と生まれる《希望》で紡がれた骨太で強大で慈悲深い現代の神話なのだ。
※水星Cの存在については神話に付き物の”トリックスター”ということでここはひとつ。彼は最後、「新世界とも旧世界とも知れない方角に去った」とあるけど、それはどこなんだろうね。
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