帰省時の読書は格別である。鈍行で5時間から長い時は6時間かけて帰るその旅路のお供は、やはり読書だ。読書がしたいがために時間のかかる鈍行での帰省を選択しているといっても過言ではない。また、電車の中での読書は僕の中で強く印象に残るものが多い。例えば、塩尻駅で受けた法条遥作『リライト』の衝撃、小淵沢駅で人間関係についていろいろ考えさせられた最果タヒ作『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』など、忘れられない体験になりがちである。上京の時ではなく、帰省の時しか印象に残る読書がないのはなぜなのだろう。よくわからない。そして、今回の帰省でも印象に残る読書ができた。それが舞城王太郎作『ビッチマグネット』である。以下、あらすじ引用。
すべてを分かち合う仲が良すぎ?な香緒里と友徳の姉弟。夫の浮気と家出のせいで、沈みがちな母・由起子。その張本人である父・和志は愛人・佐々木花とのんびり暮らしている。葛藤や矛盾を抱えながらもバランスを保っていた彼らの世界を、友徳のガールフレンド・三輪あかりが揺さぶりはじめて――。あなた自身の「物語」っていったい何?優しくて逞しい、ネオ青春×家族小説。
そして、こちらが書き出し。
「すねなんか好きなだけかじればいいけど……」とお母さんが言う。「心はかじられると、痛いし、辛いし、ねえ、苦しいし……かじられた分、心ってのは削れて減るんだわねえ……」
ダイニングテーブルの上は土曜のお昼ご飯の片付けが綺麗に終わり、椅子に座ったお母さんは凄く痩せていて、私はテーブル越しにあ、そうか、違うこれ痩せてるんじゃない、お母さん、減ってるんだ、と思って、言葉の真実味がひしひし、怖かった。
お母さんの心をかじっているのはお父さんと友徳で、お父さんはそのとき浮気癖状態だった。
この本を読もうと思ったのは、ある方のツイートのおかげ。『ビッチマグネット』のどこかの引用されていたのだが、なにしろ「ビッチマグネット」っていう題名が強烈で、しかもあの舞城さんの作品ということで、そのツイートを見た瞬間購入を決定。インパクトありすぎィ!!翌日購入しました。
語り手の香緒里は物事を客観視し、その物事に対して冷静に(冷徹に?)分析を加えるような女の子。その香緒里が高校1年の時からスタートする。本をたくさん読み、周囲の人物(一緒に布団に入って寝る弟を除く)に一定程度距離を置きながら生活を送るという生き方。そんなスタンスの彼女がよく表れているのはここだろう。
ありふれていてつまらない言葉っていうのも私をイラッとさせるけど、こういうパターン通りって言うか、ありがちで陳腐なのに迷惑な生き方って何とかならないのだろうか……。くだらないパターンってものにちょっとは抗えよ。工夫しろ!自分を見つめて考え直せ!本を読め!何が陳腐で薄っぺらいのか、物語を読まない人間には判らない。
これは、浮気で家出した父親に対する香緒里の不満だが、香緒里の人間関係の基本となる考えがよく表れていると思う。周囲の人間がどうしても陳腐な存在に見えて、自分は陳腐になりたくないから、あまり周囲に踏み込まない、的な。そんな気持ちを僕は分かるし、「工夫しろ!自分を見つめ直せ!本を読め!」ってところ完全に同意できるところだった。だから、語り手の香緒里にはかなり共感しながら、読み進めていたのだが、、、
舞城作品は(著作をすべて網羅しているわけではないので、こういうことを言うのはお門違いかもしれないが)長い年月をすべて一人称視点の現在時制で書かれている、というのが特徴だと思う。回想形式や第三者視点の物語ではない。だから、(『ビッチマグネット』に限ると)小説の中で、香緒里は小説の進行と共に成長している(変化している)。小説に書かれている心情描写は小説内の「今」香緒里が思っていることが書かれているのだろう。だから、その小説の読者も香緒里の成長(変化)をリアルタイムで追うことができる(追うことしかできない)。当然のように、前述の香緒里のスタンスは変わっていく。
特徴的だったのはこの部分。
それに私って、よく考えたら友達っぽい人はいるけど、土曜日とか日曜日とか、お休みの日に一緒に遊びに出かける子がいないのだ。
私は友徳の部屋をでてお風呂に入り歯を磨いてトイレに行って寝る。
ときどき男の子たちから電話をもらう。遊びに誘われたりもする。どこどこ行こうって言われることが多いけど、私は映画が観たいって言う。私はなんだか空っぽなので、外から物語を読み込んで吸い込んで私の中身をできるだけうめていきたい。繰り返し思うけど、私最近本を読んでいない。
今は気分が乗らない、自分の中で気合が足りない、なんとなく今は違う、みたいな感じで本棚に近寄らないまま時間が過ぎてきたけど、本当は本を読むには何らかの能力が必要で、最近の私はそれが弱まっているのだろうか?それは本をまた手に取りさえすれば取り戻せるのだろうか?
私という生き物は弱体化してきている。
大学二年になり、いろいろ乗り越え、真面目に大学に通い始めてからの香緒里の心情。本を読まなくなった、という転換がここで示される。「私はなんだかからっぽなので、外から物語を読み込んで吸い込んで私の中身をできるだけうめていきたい」とかっていうのは、高校生の時の香緒里のスタンスであるけど、なにしろ<本を読まなくなった>というのは大きな変化だ。香緒里自身はそれを「弱体化」と表しているし、ここの場面を読んだとき、僕も同じようなことを感じ、同時に「なんで!?」と思った。しかし、読み終えた今、<本を読まなくなった>ことは「弱体化」ではなくむしろ「成長」だと感じているし、その理由も分かる。
香緒里は終盤、大学を卒業し就職をした後、思い至る。
人のゼロは骨なのだ。
そこに肉が付き、皮が張られてその人の形になる。
産まれて育っていろんな人に会っていろんなことを知ってその人が出来上がっていく。
いろんな物語を身にまとう。
その人が死んだなら、身体を焼いて肉を煙にし、骨は集めて土に埋める。身体をまるごと土に埋めるところもあるだろう。身体を全て海や川や空や動物に還すところもあるだろう。
残るのは物語で、それが実際の記憶であろうと、私の勝手な想像による捏造であろうと、物語としては同じだが、たぶん細部の描写の強度で負ける。
描写の強度で負ける物語は、語るに足らない物語なのだ。
ここからは、香緒里のはじめのスタンスとは全然違うスタンスが読み取れる。陳腐に見える周囲の人々も、その人自身の「物語」で満たされていて、それは想像の「物語」とは比べ物にならないのだ、と。
高校生の頃、思い立ったものの描けなかった漫画(物語)。それを小説という形で香緒里が社会人になってから実現したのは、香緒里自身が香緒里自身の「物語」で満たされたからだろう。香緒里はもう、外部から「物語を取り込んで吸い込」む必要のある「空っぽ」な人間などでは、もはやない。
いい本に巡り合うことはとても重要だが、同時に読む時期も重要なファクターであると考えていて、この『ビッチマグネット』をこの時期に読めたことは僕自身にとってとてもよかったと感じる。僕はまだまだ「空っぽ」なのだ。高校生の時の香緒里と同じように。だからたくさん「物語」を摂取しなくちゃならない。社会を目前にして焦る。「空っぽ」のままでいいのか。「陳腐」にもなりたくない。焦る。あせる。でも、焦る必要はない。「産まれて育っていろんな人に会っていろんなことを知って」いつの間にか僕は「物語」で満たされているだろう。それは陳腐に見えるかもしれないが、絶対に陳腐ではない。そんな安心感を与えてくれました。
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