この記事を読まれる皆様におかれましては、ラビンドラナート・タゴールという詩人をご存知であろうか。
この方である。
インドの詩聖と慕われ、初めてアジア人でノーベル賞(文学賞)を受賞(1913年)した方。ベンガル語で書かれた詩集『ギタンジョリ』を自らの手で英訳したもの『ギータンジャリ』が最も有名。ノーベル賞もこの作品で受賞していて、ウィキペディアによると、受賞理由は「西洋文学の一角をなす英語で思考し表現された、至極の技巧による彼の深く敏感な、鮮やかで美しい韻文に対して」だそうです。
実は詩だけではなく、およそ「文学」と呼ばれるジャンル(詩、小説、物語、童話、戯曲など)で優れた作品を遺している人であり、マジぱねえ。詩「聖」と呼ばれるだけある。
ぼくには何が「詩」で、何が「物語」で、何が「文学」なのかを語る言葉を持たない。そもそもこれらに明確な違いがあるのかどうかもわからない。いちばんいろいろなものを包括できそうな「物語」をぼくは使いがちだけども。
でも、「詩」っちゅうのはなんだか苦手だった。いや、詩を知ろうとしていなかった故の苦手意識だから、恥ずかしい話なのだけれど。勝手なイメージで「詩」は説教臭いもんだと思っていた。いつそんな気分が醸成されたかも今となってはわからないけれども、そんな自分を救ったのは、タゴールの「いまから百年のちに」だ。
その詩をちょこっと紹介。
いまから百年のちに
いまから百年のちに
わたしの詩(うた)の葉を 心を込めて読んでくれる人
君はだれか――
いまから百年のちに。
早春の今朝の歓びの
仄かな香りを、
今日のあの花々を、鳥たちのあの唄を、
今日のあの深紅の輝きを、わたしは
心に愛をみなぎらせ 君のもとに
届けることができるだろうか――
いまから百年のちに。
それでも、ひととき 君は南の扉を開いて
窓辺に坐り、
遥か地平の彼方を見つめ、物思いにふけりながら
心に思いうかべようとする――
百年前の とある日に
ときめく歓喜のひろがりが 天のいずこよりか漂い来て
世界の心臓(こころ)にふれた日のことを――
(後略)
――森本達雄編訳『原典でよむ タゴール』(2015年5月 岩波現代全書)42ページより
この詩はもうちょっと続くのですが、ラストへ向かうこの先の部分がもう最高!!!って感じなので、是非読んでみてください(大きい声では言えませんが、検索すると出てきます)。
僕はしかとあなたの「詩の葉」を受け取った。ちょうど今が「百年のち」であるのも感慨深い。
この詩を初めて読んだ時、たしかに僕の心に「仄かな香り」が、「今日のあの花々」が、「鳥たちのあの唄」が去来した。たしかにあの時、早春のインドの平原にぼくはいたのだ。実際に見て聴き触り感じたあのファルグン=早春。
なんと力強い詩なのだろう。僕の心に去来したファルグンは、去来したその日以来、ぼくをとらえて離さない。あなたの「春の歌」が僕の日々に「こだま」している。
時空を超えた仕掛けを仕掛けてきた「詩聖」にぼくはなすすべもなかった。でもこんな時限爆弾をしかけてくるなんて素敵じゃないか。紡がれる言葉は「百年のち」にも残り、インドなんて行ったこともない、見たこともない日本に住むある平凡な少年に届き、時限爆弾が爆発した。「いまから百年のちに わたしの詩の葉を 心をこめて読んでくれる人 君はだれか――」まぎれもない僕だ。
この爆弾は無限に増殖している。僕にこの爆弾が届いたように、「百年のち」のいろんな人に届いているはずだ。そしてあなたの「春の歌」が「こだま」している人たちがたくさんいるはずだ。
そんな人たちにあなたは最後のメッセージを届ける。
いまから百年のちに
君の家で
歌って聞かせる新しい詩人は誰か?
だから、ぼくはことばを紡ぐ。この僕にとっての「いまから百年のちに」、「詩の葉」を届けるために。これは祈りだ。
いまから百年のちのあなた、どうもこんにちは。
※編訳者の森本達雄さん、昨年(2016年末)にお亡くなりになっていました。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
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