藤子・F・不二雄さんの「SF」の定義、すなわち、「少し・不思議」の略だ、っていうのは、とても素敵な定義だと思う。普通の生活に潜む「少し不思議」、僕たちが見落としがちな、目を逸らしがちなその事象を、切り取ることができれば、全部「SF」だろう。そして、その「不思議」は得てして「少し」ではなく「すごく」「不思議」なことである。
そんな「SF(少し/すごく・不思議)」を切り取った作品が『うどん キツネつきの』である。以下、あらすじと冒頭引用になります。
犬そっくりの生き物を育てる三人姉妹の人生をユーモラスに描き、第1回創元SF短編賞佳作となった表題作、郊外のぼろアパートで暮らす人々の可笑しな日常「シキ零レイ零 ミドリ荘」、15人姉妹の家が建つ孤島をある日見舞った異常事態「母のいる島」、ねぶたの街・青森を舞台に時を超えて紡がれる幻想譚「巨きなものの還る場所」など、全5編を収録。
一日め
「今、あのゴリラ啼かなかった?」
和江が足をとめて振り返るように見上げると、信じられない程の青空にゴリラが笑っていた。
「は?」
美佐は和江の少し前を行ってから足をとめ、まず和江の顔を見て、その視線をユックリ辿るようにゴリラを見上げる。
――「うどん キツネつきの」より
表題作「うどん キツネつきの」と「シキ零レイ零 ミドリ荘」、「母のいる島」の三篇はコミカルに、「おやすみラジオ」と「巨きなものの還る場所」はシリアスに、という違いはあるものの、冒頭で述べた通り、出発点は全て「少し/すごく・不思議」だ。
そこから紡がれるテーマは哲学的な思索に富む。表題作から順に特徴的なテーマを挙げていくと、「家族」「言葉」「身体」「文化」「場所」のようなものになるか。もちろん、SFは「人類とは」などの哲学的な議論になるのが現代の特性でもあるのだけれど(そして僕はそんなSFが好物なんだけれど)、高山さんのすごいところは、すぐに小難しくなってしまうだろうこれらを、あくまで生活の延長として、日々の暮らしにしっかりと足を付けて描き切っていることだろう。
たしかにオチの部分であったりとか、急に突拍子のないガジェットが出てきて(空を埋め尽くすUFOとか)、なんだこれ、と思うところもあるけれど、そのガジェットの登場場面を読めばわかるように、一見しただけではわからないものとして登場している。
この空の、くすんでいるのに明るい白さはなんだろう。
眺めているうち、白さの中を何かが飛んでいることに気づいた。それ自体も白かったからよく見ないと気づかない程のものだったが、眺めながら、何かに似ていると和江は思った。
昔の映画に出てくる、平べったくって四角い宇宙船のようなものだった。(中略)
和江は言葉に出してしまってから慌てて辺りを見回した。駅からさほど離れていない交差点にもかかわらず通行人は和江と洋子しかいなかった。洋子は熱心に携帯を見ていて、和江の言葉はおろか上空のそれにさえも気づいていない。
――「うどん キツネつきの」より
普段、雪だと思い込んでいるものは実際何だ。普段、星空だと思っているその景色は実際何だ。今見ているパソコンのスマホの画面は実際は何なのだ。
それは宇宙船が人知れず降らしているものかもしれない。それはUFOの底面の鏡面に映った街の夜景なのかもしれない(もしくは犬の目なのかもしれない)。そんなことがあっても、全然おかしくないと思ったりしている。
作中の登場人物たちは何の抵抗もなくそれらの事象を受け入れる。彼女らにとっての生活はそんな「不思議」なことと地続きなのだろう。それは翻って僕たちの読者たちの世界もちょっと注意してみれば「不思議」なものなのだと、言っている気がする。
いつの間にか僕たちは、星を、雪を、夜を、月を、想像(=創造)することができなくなった。サソリに追い回されているオリオンを、月にいるウサギを、大人になってしまうと想像することができない。
失われてしまった想像力は、「想い」なのだとこの本は語りかける。
「ありゃ、想いだ」
「想い?」(中略)
「自分の居場所と、一族を想う、想いだけがあって、それに、人間が身の丈に合わねえもんを……」
――「巨きなものの還る場所」より
別に、この想像力を今、取り戻さなければならない!と声高に主張したいわけではない。でも、「自分の居場所と、一族を想う、想い」があると、僕は優しさで眼差せる気がしているのだ、この世の中に。この作品の登場人物たちと同じような慈愛に満ちた眼差しで。
「なんで私はこんなに『家族』や『場所』に縛られるんだろう」(中略)
「解らないけど、意識とか、魂みたいなものは、ひょっとしたら私自身にあるんじゃなくて、所属している集団とか、場所のほうにあるのかも。そこにたまたま私みたいなひとつの生き物がいるから、私に魂があるように見えるだけで……」
――「巨きなものの還る場所」より
現代にトトロはいないし、トトロに会える森もないけど、”想像”することはできる。その”想像”の基盤はどこかで見た、感じた「あの場所のあの風景」のはずだ。だから僕たちはまだ”想像”=”創造”できるはずだ。
「場所」と言えば、「君の名は。」でも考える上ではずせない要素でしたね。
あと、「創元SF短編賞」は酉島伝法さんも取ってらっしゃいます。「皆勤の徒」で。
0コメント