朝井リョウ作『何者』感想 「何者」かになるための魔法の言葉もしくは呪文


 僕は弱っちい人間なので、周りの同世代と比べればほとんど「就活」をしていないに等しい。今、なんとか「大人」として社会の荒波に揉まれることができているのはおそらく、ラッキーだ。


 小さい頃の無邪気な僕は、なりたいものになれるものだとばかり思っていた。パイロットになりたい、本屋さんを開きたい、先生になりたい、編集者になりたい。しかし、思い通りに行くはずもなく。


 今の僕は「何者」かになれたのか。


 以下、あらすじと冒頭引用です。


就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから――。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて……。直木賞受賞作。


 ドン、と、誰かの肩が当たって、リズムが崩れた。曲のテンポの波から外れた自分の体は、光太郎の歌声が作り出す空間そのものからポンと押し出されてしまったようだ。そのとたん、ライブハウスなんていう全く似合わない場所にいることを誰かに見つけられた気がして、急に恥ずかしくなる。


 さて、映画公開もされて、何かと話題になっている本作。一番の売りは、映画監督の三浦大輔さんの書かれている「解説」中にある、「主人公の立場で感情移入し、安全な場所で傍観していた読者が、いきなり当事者になり変わるところ」であることは疑ええないだろう。それはそれは鋭利なナイフですよ。


 そして、この作品について何か所感を述べる、という行為自体、本作はためらわせる力がある。突き出したナイフが自分の背中に刺さる。そんなイメージ。恐ろしいことである。でも、ここは命を賭して書こうではないか。自分の言葉に足元を掬われながら。


 言葉、と言えば、大学の先輩(サワ先輩!?!?)が本作『何者』について、こんなことを書いていた。

なるほど。。。(ちなみに、映画『君の名は。』の考察記事も非常に面白いので、ぜひとも。)

 

 また、上記引用のブログの中で、こんなことが書かれていた。

映画の宣伝の都合上、アオリ文は「オチ」をこの小説の価値として全面に打ち出しているように思う。が、そこは正直、問題にならないし、そこに救済などなく、結局社会が我々を待ち受けているというだけのこと。 

 ――Snobbism「朝井リョウ『何者』感想――言葉と物と、時々ワタシ」


 概ね同意であるし、別に楯突こうというわけではないのだけれど、結末と言葉について。ちょっと思ったことをここでは書こうと思う。少し、結末、というか、初読でどっきりしてほしいところに触れるかもしれないので、注意されたし。


 確かに、拓人は「何者」でもない。しかし、ここにでてくる登場人物たちは、拓人と同じように「何者」でもない。それは、登場人物全員のTwitterアカウントでの「つぶやき」風の表現からわかることのような気がする。


 Twitterでの「つぶやき」 はみせたい自分を表現する場所だ。すなわち、「私は○○である」と声高に主張する場所である。私は「何者か」であると主張する場所である。そして、そこから立ち上る、例えば「田名部瑞月」像と実際の「田名部瑞月」は違うものである、ということは、主人公の拓人があぶり出している通り。


 そして、そんな風にしてTwitterはじめSNSに「私は○○である」と主張するということは、現実の僕・私は「何者」でもなんでもない、ということの裏返しだ。(まあ、こんなことも結末部分で理香が言ってることではある)


 しかし、そんなSNSによる表現が鳴りを潜めていく。


 それは、瑞月が”身体性を伴った言葉で”つまり、”空気をふるわせて紡いだ言葉で”就活をすることで得ることができた哲学(といっていいかどうか)を吐露する場面から、である。


 「見せたい自分」から「なった自分」へ。SNSで書かれた言葉から口から発した言葉へ。そのような変化が仲間内に現れたことで、次つぎと「なった自分」を空気を震わせて白状していく。


 僕は、その登場人物たちが口で発したその言葉たちが、魔法の言葉もしくは呪文に感じた。


 自分が「何者」かであるための。「何者」かであることを錯覚させるための。

 そう読むのは穿った見方だろうか。


 「私ね、ちゃんと就職しないとダメなんだ」と瑞月が言う。「だけどこの姿であがくしかないじゃん」と理香が言う。「長所は、自分はカッコ悪いということを、認めることができたところです」と拓人は言う。「何者」かになるためには、自分の魔法を、呪文をかけないとダメなのだ。「何者」でもない僕たちは。


 騙し騙し、SNSに投稿することで「何者」かでいられた僕たちが社会に出るためには、自分に直接言葉を浴びせること(呪文をかけること)で、「何者」かになったかのように見せかけないといけないのだ。


 この本には、そんな「何者」かになれるかのような魔法の言葉が、溢れている。


 ラストの拓人に少しでも希望を持てたなら、読後の印象が良かったのなら。あなたはその魔法にかかっています。


 それが、朝井リョウの「赦し」なのだろうか。

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