見てきました、「ポッピンQ」。いやはや、公開されている映画館がとても昔ながらのところでしてね、ノスタルジーを感じながら(昔ながらの映画館は数えるほどしか行ってない)鑑賞してまいりました。何がびっくりってお客さん僕一人ね。僕一人。「ポッピンQ」って下に貼り付けた動画を見て頂ければわかるのですが、パッと見女児向けの映画なのですよ。そして、この感想も女児(というか児童)向けの映画です、と結論付ける予定なのですが、そんな映画にヲタクが一人。受付のお姉さんたちにさぞ笑い者にされていたことでしょう。
ストーリーは、この動画を見て頂くことにして。
また、ネタバレがございます。ご注意の程をよろしくお願いいたします。
はてさて今作、正直なところ評判が芳しくないようです。ソースは不明ですが、もともと2017年1月に公開予定だったところを一カ月前倒しにして公開に踏み切ったとか。今年のアニメ映画の豊作を意識してのことでしょう。公式ホームページでも
アニメという枠を超え、観客の胸に迫る、5人の青春ドラマ。アニメでしか描くことのできない魅力的なダンス。 この2つが融合した本作は、アニメ映画の大ヒットが相次いだ2016年の掉尾を飾るにふさわしい爽やかなエンターテインメント作品となっている。
――公式サイト「劇場アニメ『ポッピンQ』|イントロダクション」より(下線は私に付した)
と、今年(2016年)のアニメ映画の締めに「ポッピンQ』を見てね!!と言わんばかりであります。
評判のよくない理由は管見の限り、「対象層がわかりにくい」というところが大きそうです。果たして「プリキュア」をリアルタイムで見ている女児向けなのか、それとも(僕のような)大きなお友達向けのものなのか。それがプロモーションや声優の配置とストーリーとのちぐはぐさから分からなくなっている、というものが主張だと見受けられました。そこから全体的にすごく中途半端であると。
たしかに、その点はかなり不明瞭であります。しかし、ここではそういう”大きなお友達”要素を極力排して見てみたい。すなわち、バックグラウンドを敢えて無視する。ダンスがすごいとか、声優が豪華だとか、そういうところを。
――「ダンスアニメーションPV」より
(もちろん、ダンスがすごくない、声優がすごくない、ということをいうわけではない。3DCGもここまで違和感なくできてるのは間違いなくすごい)
この映画、『ポッピンQ』は王道まっしぐらの”ファンタジー”なのだ。
こことは別の世界に飛び(「スライド」し)、こことは時間の進み方が違う世界でその世界を救う少年少女の物語は、主に児童文学の世界で多く行われているように思えます。別世界へ移動し、ここではできない体験をする、というのは、子どもの特権なのだ、というような所感は以前、こちらの記事で述べました。
この記事で書かれたこととも被ってしまうのですが、少しだけ私見を述べておこうと思います、まあ、私見と言いつつ、大学時代の友人たちと飲みの場で交わした議論(?)での意見も入ってしまっておりますが。
現実と異世界を行き来する児童ファンタジーに多く共通するのは、現実では虐げられている子ども(程度の差はあれ)が、異世界では特別なオンリーワンでナンバーワンな存在である、ということ。そして異世界での冒険を終えたら必ず現実へと帰ってくること。これらのことが大きな枠組みとしてあると思われます。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にしろ、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズにしろ、宮部みゆきの『ブレイブストーリ―』にしろ、この枠組みは見て取ることができます。
そしてここで重要なのは、いくら異世界ではオンリーワンでナンバーワンな存在であっても、そしてそんな存在を経験しても、基本的に現実世界の主人公の立場はまったく変わらない、ということだと思います。
ということは、どういうことか。異世界での旅路は冒険は、主人公の内面を巡る旅路・冒険と同義であると言えるのではないでしょうか。現実での現状は、何一つ変わらない。でもその変わらなさを受け入れ自分はどうしていけばよいのか。その手段を手に入れる旅路が異世界での旅路なのでしょう。
とするならば、思春期の子どもたちは全員、自分でも知らないうちに異世界へと旅立っているともいえるでしょう。そう、ぼくもあなたも。その旅路で手に入れたものがこちら側の言葉では”成長”と呼ぶものではないでしょうか。
ざっと児童ファンタジーをこのように理解した時、映画「ポッピンQ」はこの枠組みに当てはまっていることは自明でしょう。よって「ポッピンQ」は児童向けファンタジーと理解されるべきです。いうまでもなく、異世界〈時の谷〉に呼ばれた(迷い込んだ)5人の少女の成長譚なのです。中学校の”卒業”になぞらえ、庇護される/されてしまう「子ども」という身分からをも”卒業”する5人の少女たち。そんな”卒業”をするためには異世界を冒険する必要が、あるのです。
主人公の伊純(いすみ)の母親のセリフ、
「女の子はいつの間にか成長するものなのよ」
であったり、これまた伊純の同位体のポコンの、
「お前たちは大人になる力をしっかり持ってるんだ、胸を張っていけ」
というエール(セリフはうろ覚えなので悪しからず)にも、それは象徴されているでしょう。
それでも、喋り(らせ)すぎという面は指摘しておかねばなりませんが(正直ポコンのこのセリフはなくてもこんなようなメッセージは受け取れました)。
どこかで見たことのある展開ばかりのご都合主義の切り貼りドキュメント。そんな風にも揶揄されてしまっている本作「ポッピンQ」ですが、この映画を見るべきひとは、「大きな非物語」を「データベース消費」するほかなくなってしまっている我々大きなお友達(=オタク)ではないことは確認しておかねばなりません(東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書2001年 参照)。
しかし、プロモーションの方法として「オタク」を誘導する手法を取っている時点で「ポッピンQ」の失敗は目に見えていたようにも思えます。
僕は、エンドロール後のあの映像は、本当に蛇足だと思います。正直言っていらない。
現実の現状は、立場はほとんど変わっていない。このことが重要だと先ほど述べました。「ポッピンQ」の場合、集まった5人は縁もゆかりもない5人なのであって、異世界でのかけがえのない友情を築きながらも、現実では離れ離れ、というオチでよかったと思います。現状は変わらないのだから。またどこかで会えるかしらと登場人物たちと観客がともに夢想できるそんな終わらせ方の方が良かった、と僕は思います。
しかし、作中で5人を合わせてしまったらいけない。そんなことをしたらその5人は現実世界でもオンリーワンでナンバーワンな存在になってしまう。わざわざ異世界にいって”成長”した意味がなくなる。”成長”とは、大人になるとは、オンリーワンでもナンバーワンでもないということに気付くことでもあるのだから。
児童向けファンタジーとしてこの「ポッピンQ」を見る/読むとするならば、続編を匂わす、現実世界で異世界で出会った仲間とともに一戦交えるあの映像は本当に要らない。僕はそこが一番残念でした。
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