平成27年下半期芥川賞受賞作品のもう一つの方、滝口悠生の「死んでいない者」の感想を綴ろうと思ふ。
秋のある日、大往生を遂げた男の通夜に親類たちが集った。
子ども、孫、ひ孫たち30人あまり。
一人ひとりが死に思いをめぐらせ、互いを思い、家族の記憶が広がってゆく。生の断片が重なり合って永遠の時間がたちがある奇跡の一夜。
第154回芥川賞受賞作。
こちらはかきだしになりまふ。
押し寄せてきては引き、また押し寄せてくるそれぞれの悲しみも、一日繰り返されていくうち、どれも徐々に小さく、静まっていき、斎場で通夜の準備が進む頃には、その人を故人と呼び、また他人からその人が故人と呼ばれることに、誰も彼も慣れていた。
なんだか、文学賞を「あてにならない」といっている人がいるらしい。
とってももったいないと思う。「文学」が死んで久しいが、それでも「文学」を取り戻す、復興させようとする動きを否定するべきではない。「文学」とは何か、「純文学」とは何か、「私小説」とは何か、そして「文学」は死んだのか。そんな問いは論文をたくさん読んで言及しないといけない。怖い。だけれども、それでもこの現状、やはり「文学」は死んだんだな、と思ってしまう。ちょっと頭を抱えちゃう。
面白い、面白くない、その判断基準は人によって違う。それはそれでいい。でも、でもである。エンターテインメント性のみをその基準にするのはどうなのか。
ぼくの感じる「面白い」は、エンターテインメント性はもちろん、例えば日常の切り取られ方、作家が注目している問題意識、着眼点、さらにそれらを伝えるための表現の仕方、その表現から生まれる作家すらも意図していなかった新しい解釈などである。
逆に「面白くない」と思う本は箸にも棒にも掛からぬ本。空気みたいに存在感がない本。読んでも何も残らない本。正直、そんなにない。
僕が本を読むときに意識していることがある。「面白くない」本がそんなにない理由はこれに起因している。その意識していることは
”価値は見出すものである”
ということ。
読書は作者と読者がいなければ成立しない体験である。であるならば、作者が物語を作るように、読者も何かを考え何かを作り出さなければならないと僕は考える。だから、作者の意図と、またそれ以上のものをその作品から読み取ろうと読書している。その本の価値を与えるのは作者ではない。読者であると僕は信じる。
だから、遊園地で楽しむ観光客のように、提示されたエンターテインメントをただただ享受する、作者におんぶにだっこである読者の形からは卒業しないといけないと思う。
「芥川賞っぽい作品」という言葉が芥川賞受賞作にはよく与えられているように感じる。それは「よくわからない作品」ともすれば「面白くない作品」を揶揄しているようにも思えてしまう。
ジェットコースターのようにひたすらレールに乗り続ける読み方ではなく、ゆっくりと見える景色を聞こえる音を感じる感触を楽しむ散歩のような、そんな読み方を心がけていきたい。
と、話が逸れたが、「死んでいない者」です。
ひたすら葬式後の通夜の様子が語られる本作。たくさんの登場人物(というか親戚たち)、固定されない語りの視点、そんな要素のせいで段々なにがなんだか分からなくなる。でも、それらの表現のおかげで、まさにお通夜の様子をそのまま、表すことができているのだろう。
作中、ほとんど大往生を遂げた故人についてあまり言及されない。しっかりと言及されるのは、故人の友達「はっちゃん」に視点が移った時。血のつながっている親戚たちの視点からは故人のことがほとんど語られないのは面白い。葬式や火葬などが全て済み、故人を忍ぶのではなく、未来のことを考える場であると、通夜のことを捉えているのだろうか。
実際の通夜もそんな感じだったかもしれない。
語りが自由自在であるように、作中の地の文と会話文と心中思惟も「」のようなもので区別がされない。
語りの視点により、酒により、たばこの煙により、あやふやに溶け合いながら、まるでまさにあの世の出来事のようであった通夜の一晩は、子どもたちが画策する供養の鐘の録音によって、記録されることによって、この世に接続される。ハレからケへ。その儀式を音によって、それが録音されることによってなされるのである。
死んでいなくなった者も、そもそも死んでいない者も、通夜のときだけは時間と空間を共有しているけれでも、その両者は分かたれるべきである。それが、しっかりと、そして音楽によって示されていることが、とてもよい。
人は前に歩く。立ち止まっても結局は。
もう一つの受賞作「異類婚姻譚」の感想はこちらになります。合わせてどうぞ。
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