もう、さすがに芥川賞受賞作ぐらい読んでおかないと。そんな思いから『文藝春秋』の今月号(2016年3月号)を買った。2作とも全文掲載されているので非常にお得。選評も全部載ってるしね。と、いうわけで、本谷有希子作「異類婚姻譚」を読みました。感想を綴りたいと思います。以下、あらすじと冒頭引用ですです。
「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。」――結婚4年の専業主婦を主人公に、他人同士が一つになる「夫婦」という形式の魔力と違和を、軽妙なユーモアと毒を込めて描く。
ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういうふうにと説明できるほどでもない。が、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近づいているようで、なんだか薄気味悪かった。
異類婚姻譚って言葉はもともと説話などの日本古典作品の話型の分類の一つ。人間が人間以外のものと婚姻しなにがしかが起こる話を異類婚姻譚として分類している。だから、異類婚姻譚って言葉自体は説話のなかや古典作品の中では題名になり得ない。後の研究者が話型の特徴をまとめそれに名前を付けたものだからね。
また、異類と婚姻している人物以外の人間があまり登場しないのも特徴。その人間が現れるのは異類との婚姻が破局する時、つまり異類と明かされるときで、その第三者の介入によって暴かれるというパターンが存在する。よって、異類を人間であると認識しているのは異類と婚姻している人間のみである、ということになろう。(参照 小松和彦『異界と日本人』)
さらに、「鶴の恩返し」など有名な異類婚姻譚は、男が女の異類と婚姻するというパターンがほとんど。異類婚姻譚全体で見れば、女が男の異類と婚姻するパターンとほぼ同数であるらしいが、ぱっと思い浮かぶのは前者が多い。
そんなことを踏まえれば、本谷さんの「異類婚姻譚」というタイトルは、異類婚姻譚という言葉から想起されるイメージを十全に活かしているとはいえないと思う。ただ、異類と婚姻する話、としての題名に過ぎないだろう。他のタイトルの方がよかったのでは、と思う一方、良さそうなタイトルが思い浮かばないのも事実なので、このぐらいで。
僕が思うに、本作は”わたしとあなたの境界”がテーマかなあ、なんて軽ーく思ったり。
人は誰しも自分の領域を持っている。人と接するというのはその領域を近接させることであり、その時、お互いの境界同士を近づけ、接したり、親密度の高さから重なったりする。夫婦というその形は、同じ屋根の下に暮らし、寝食を共にし、セックスをする、ということなどから、境界領域(重なっている部分)が広くなってしまうことは当然のことであると言える。
夫婦のお互いが似てくる、という現象(?)は”わたしとあなた”のお互いの境界領域が広くなるということを表しているのだろう。境界領域の広がりは、”わたしとあなた”の同化への過程と同義である。二つの円を思い浮かべ、それを端からだんだんと重ねていく様子を考えれば、分かりやすいかもしれない。
さらに、その同化の工程を、夫婦という形をとることによって社会的に制度的に、むしろ推奨されているかのようでもある。主人公サンちゃんの弟のセンタとハコネちゃんは同じ屋根の下に暮らし、寝食を共にし、おそらくセックスもしているだろうけれど、籍を入れず、結婚していないため、同化が進行していかない。夫婦とはかくあるべき、というような世間の目は無視できない要因である。
相手のことを我がことのように思う、それは素晴らしいことであることには間違いないが、それができるのは”あなた”と重なっている領域が大きいからであろう。夫の吐いた痰を妻であるサンちゃんが「自分が吐いたもののように感じ」、ハンカチで痰を拭った。このことへの気持ち悪さをオバサンに指摘されてから後、夫の顔の配置がだらしなくなっていく。サンちゃんが同化を認識したからであろう。顔も”わたしとあなた”を分ける境界である。その顔が判然としないものに見えるようになるということは、”わたしとあなた”の境界が判然としないものになったことを表しているだろう。
夫の顔が完全に崩れ、サンちゃんがそれに気付いてもあるべき位置に戻ろうとしなくなるほどお互いの重なる領域が広くなった場面では、もう一度「吐き出す」という言葉が使われる。新婚旅行のときの梨のエピソードである。夫が咀嚼した梨を「吐き出し」、それをサンちゃんが嬉しそうに食べていた、というこのエピソードは、痰の時よりも顔の崩れ方と同様にレベルが上がっている。一度他人の体内に入ったものを自分の体内に入れる、というのは、相手のことを我がこととしていなければ、できない芸当ではないだろうか。それほどまでに同化は進行していることが示されている。おそらく、サンちゃんの方も顔は崩れていたに違いない。
ラスト、完全にお互いが同化する。サンちゃんは嫌いだったハイボールを飲み、夫は家事と揚げ物料理に精を出す。この場面、この夫婦の境界がなくなったことを示すかのように、セリフからではどちらの言葉が分からなくなり、そのうち鍵括弧も取り払われる。どれがセリフかどれが地の文か、分からなくなる。読者、という絶対の領域までもその境界をあやふやにしてしまうその仕掛けが其処にはある。
結末は夫に流され続けたサンちゃんが初めて選択をする。主婦であることを軸に境界を取り戻す。しかし、その結果は孤独が待っていた。「ひとりぶん」という言葉が強調されるように。人と関係を持つ、ということは自分の領域を相手と重ね合わせなければならない。キタヱさんとの関わりも猫のサンショを山に逃がしてしまった今、サンショを通じての関係しかなかったためにサンちゃんとキタヱさんとの関わりは消滅する(キタヱ、アライ主人夫婦のサンフランシスコへの引っ越し)。
自分の領域、境界を保つか、人とのつながりを保つのか。そのバランス感覚の難しさを夫婦というお互いがまったくの赤の他人でありながら、親密さを周囲から世間から制度から求められる関係を切り取ることによって、浮き彫りにしているのかもしれない。
蛇足だけど、山芍薬は夫の屹立した陰茎ですよね。セックスは直接的にお互いの領域を侵犯する。夫は積極的に同化したい人間であり、だからこそ、手っ取り早く同化することのできるペニスに最後なったのだろう。
紫色の竜胆も旦那の山芍薬によって同化させられちゃったんじゃないかな。白という色も精子を示しているかもしれませんね。紫色も白色になってしまっているし。まあ、本当に蛇足です。
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