コンビニってのはすごく便利っすよね。マジでなんでもそろってる。小腹が減った時の食料から、替えのパンツ、髭剃りまで。旅行行くのにも何か用意して、なんて手間がなくなった。もう、コンビニなしでは生きられない。
平成二十八年上半期芥川賞受賞作、『コンビニ人間』の感想になります。以下、あらすじと冒頭引用。
36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。
コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの声。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。
この主人公、「古倉恵子」には、共感はしていけない。と思う。
「古倉恵子」は自分でも言っている通り、「人間」ではなく、「コンビニ店員という動物」なのだ。「人間」に擬態しているにすぎない。だから、我々は共感などできない。むしろ、「古倉恵子」が僕たちの共感を拒む。この物語において「古倉恵子」は根本的に理解不能なものだ。
むしろ、アウトローを気取る人たち(僕を含め)に一番近いのは、「白羽さん」だろう。
こいつは間違いなく「人間」だ。
「え、自分の人生に干渉してくる人たちを嫌っているのに、わざわざ、その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」
それは結局、世界を全面的に受容することなのでは、と不思議に思った
と恵子に言われてしまっているのにプラスして、恵子に対する、
「気持ちが悪い。お前なんか、人間じゃない」
というセリフが極め付けだ。
白羽は、「人間じゃない」と恵子を否定する。そこには、理解不能な相手への拒絶が見て取れる。そして、「人間じゃない」という否定の仕方には、自分は人間である、という前提がなければ成り立たない。
自分を人間じゃないと心の底から思うことができる人間は、いるわけがない。恵子は、それを平然とやってのける。だから、僕たちは恵子に共感を1ミリもしてはいけないし、むしろ、共感を覚えなければならないのは、白羽である。
恵子は人間ではないから、人間を合理的に観察できる。僕たちが動物を観察するときのように。だからこそ、恵子の観察眼は鋭い。その観察眼により切り取られるのは、現代社会の「普通」の歪さだろう。
いつの間にか醸成されている共通認識。従わないと弾かれる同調圧力。恵子がまだ「人間」であろうと努力していた時期に、それらの歪さが描き出される。しかし、白羽のようにそれは憎悪の対象ではなく、ただ、観察の対象なのだ。ただ淡々と、目の前の事象を見ているに過ぎない。
そして、その観察眼から導き出された一つの法則、
ここは強制的に正常化される場所なのだ。異物はすぐに排除される。
はたぶん、この世の真理の一部分をつついている。この引用の「ここ」はコンビニを指しているが、社会に置き換えても、なんら問題はない。
とするならば、恵子も排除されるべき異物になりえてしまうだろう。ぼくは、「コンビニ人間」を読んで、コンビニがまるで人間の内臓のように、太い血管が走り、赤黒く粘液まみれであることを幻視した。コンビニという臓器だ。
人間を生かすために、細胞の中のミトコンドリアが、血管の中の赤血球が24時間営業で働いている。そして恵子も、コンビニを生かすために結末の後はおそらく24時間営業で働き続ける。
しかし、恵子自身が言った通り「ここは強制的に正常化される場所」であり、「「世界」は入れ替わっている」。何によって入れ替わるのか。それはこの二つを見れば火を見るより明らかだ。異物が排除されることによって入れ替わるであり、そして、「世界」は「人間」と同じように、変わらないものをも異物として排除する。だってほら、人間の細胞だって、幾日かでほとんどが新しいものに変わっていくでしょ?
一旦、恵子がコンビニから排除されたように。これからもそのような排除は恵子について回るだろう。恵子が居場所を勝ち取った、というような美談には僕は読めない。
恵子の目を通して観察される僕たち自身の不寛容さ。そしてそれがこれから改善されることがないだろうこと。それを突きつけられて、僕は心臓をぎゅっと掴まれたような感覚に陥るのである。
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