イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く
上越水族館でイルカショーを見てきた。
たかい。
イルカがたかく跳んでいた。
イルカを見るつもりはまったくなく、海がみたいなー、上越かなー、ついでに水族館あるなー、ちょうどイルカショーやってるなー、みたいなノリ。でも見れてよかった。
水族館の海洋生物たちは、たくさんの家族連れやカップルたちに、かわいい、かわいいと言われていたが、印象に残ってるのはペンギンコーナーで「こわいこわい!」って泣き叫んでる小さな女の子。そうだよな、生き物って、こわいよな。日本海を模した大きな水槽の中で彼らは、僕たちと一切の関係のなく、ただ、泳いでいた。その姿に人間の使う様々な形容は似合わない。ただ、ある、ということの力強さを感じた。
『海の怪獣』も思い出した。『海の怪獣』は僕たちを睥睨してきたが、実際の彼らは睥睨すらもしない。感動的でした。
さて、冒頭の引用は初谷むいの歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』の巻頭歌。なんせびっくりしたのは出発の時に「夏っぽい本ないかな」みたいなノリでひっつかんだやつで、イルカショーの待ち時間にページをめくってみたら、この歌だったんだもの。ひとり興奮していた。だってこれから目の前で「イルカがと」んで「イルカがおちる」んだもの。違いは、振り向いてくれるにしろ振り向かれるにしろ、「きみ」がいないこと。なんでおれは一人で水族館にいるんだ……
昔、俵真智『サラダ記念日』読んで、恋の短歌に「なんか、知らん女の子のツイッターのつぶやき見せられてるみたいだな」とかクソ失礼な感想を抱いた僕ですが、なぜかこの本に対してはあんまりそう感じなかった。系統は一緒のはずなのにな。7月6日がサラダ記念日ってのはフィクションであるというのはもう常識っちゃ常識だけど、「私の感じたこと」=私性を仮構しているから詠んだ人の身に起きたことだって無意識がはたらいてしまう。そう考えると、『花は泡、』は、フィクション性が強いのかもしれない。フィクション性というか、ことばとことばの跳躍というか。だから、「どうせあなたの話でしょ」みたいな疎外感がない、気がする。
月面のようなえくぼだ夜の駅好きって言ったら届くだろうか
ふるえれば夜の裂けめのような月 あなたが特別にしたんだぜんぶ
スカートが海風孕む生まれるよいつかぜったい誰かを産むよ
なにになったらわたしはさみしくないんだろう柑橘系の広場の中で
夜の菌。かんせんしないし安全でゆっくりわたしをよわくしてゆく
んー、ぼくは詩を語ることばを持たないな。「ことばとことばの跳躍」とかドヤってみたけどこれ普通じゃん。でも、自分と遠い話だとはどうしても思えなかった。これは共感ではありえないし、あるある!の共有でもない。書かれていることは直接的には恋人とのあれこれだけど、それらから受け取れることはたぶん、人間に生まれてしまったことへの寂しさではないか。「そこにいたって会いたい」くらいに、人間は寂しがりやなのだ。水族館で見た、海洋生物たちみたいに、僕たちはただ、ある、ことができないんだ。
言葉からゆっくりわたしが抜けていき言葉は殻だけだったらきれい
いつもは山に囲まれていて見慣れない海はずっと見ていても飽きなかった。砂浜に埋まったテトラポッドの上に座りながら歌集を読んだ。水平線の向こうまで何もない海を見ながら、少し、ぼくは寂しさを感じたのだと思う。そして、寂しいと思うことは恥ずかしくないんだ、と思ってしまった。この歌集を読んでしまったから。
だから、好きな女の子に「イルカ、すごかった!」と送ってみた。そもそも、2週間返信が来てなかったけれど。そして、かえってこないと思うけど。
かえってきたら、うれしいな。
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