空が何色かっての あんたには大事なことかい?
あたしにとっちゃ 間違いなくそうなんだ
心に目指す空の色 あたしのは・・・・・・
ダークブルーだ
――「オープニング」より
1年位前に発売されていたゲームの感想、いまさらって感じだけど許してください!(発売と同時にプレイはしていて、けっこう楽しんでました)そもそも、「エース・コンバット7」というゲームは「いまさら」なのだ。正統としてナンバリングがなされたのはなんと12年ぶり。ジャンルとしてはフライトシューティングになるわけだが、その性質上、撃ち落とすべき敵を配置せねばならず、となると、戦争を舞台とするのが常道だろう。
しかし、現在の戦争(果たして現在行われているのは戦争?)では、フライトシューティングで連想される、どこかスマートな戦闘機同士のドッグファイトは行われていないだろう。むしろ、とても泥臭く、そして汚い。自爆に飛行機に宿るような美学は宿らない。
日本ではそもそも、戦争がすでに遠いものだ。だから、正統のナンバリングタイトルが12年ぶりになってしまったのは当然だといえる。言葉を選ばなければ、「時代遅れ」のジャンルだ。さらに、戦争をシュミレーションする以上、現状の世界に対して何らかのメッセージ性が必要になる。ただ単純に2国を対立させ、片方をボコボコにするというシュミレーションの形は、成り立たない。ドッグファイトなど行われなくなった現在に、フライトシューティングがどのようなメッセージを伝えられるのか。頭が痛くなるくらいの難問だ。
そんな難問にシナリオを担当した片渕須直は、どのような解答を用意したのか。
その答えは、上記の画像に象徴されている。
「NATION」の文字の上に大きく斜めに引かれる3本線。国というまとまり・境界を無化する3本線。事実、ストーリーが進むにつれて、二国間の対立から通信網の完全ダウンを通じて最終的に対立していた二国は一つにまとまる。「3本線」と敵国のパイロットから呼ばれ恐れられていたエースパイロット、すなわち「僕」によって。
「分断」ではなく「つながり」を求めよう、というのは現在の世界において(特にリベラルの人に?)主張されていることだ。アメリカにもっともよく表れているように、世界は見知った世界だけに閉じこもろうとしている。あるエピソードではプレイ中、僚機のパイロットが「国境に壁をつくってやがる」というような呟きを漏らす。アメリカとメキシコの「壁」を意識したセリフだろう。
その「つながり」を媒介するのが限りなく宇宙に近い「ダークブルー」の空だ。空からはすべてが一つに見える。地上のいざこざなど、関係なくなっていく。
サン=テグジュペリ『夜間飛行』から森博嗣『スカイ・クロラ』、神林長平『戦闘妖精 雪風』まで、戦闘機乗りの作品は数多くあれど、それらはパイロットの孤独とその偏愛を描いているものが多いような気がしている。広大な空にたったひとりぼっち、そんなイメージだろうか。それに対し、「エース・コンバット7」では空を媒介にした「つながり」を一番の核に置いている。その点で、これら文学作品とは一線を画していると言えるだろう。
「分断」した2国を空を媒介にして「つなげ」ようとする。それが現在へのメッセージの一つだ。ではどのように「つなげ」たのか。これがもう一つのメッセージに当たるだろう。すなわち、「AI」の存在である。
当初は敵国の隠し玉として投入された「AI」搭載の無人戦闘機は、電子爆弾による全世界通信網途絶をきっかけに、人間の手を離れていく。プログラムを組んだのはもちろん人間だが、そのプログラムに則った動きが結局、人間側を脅かすものであった。そもそも無人であるから搭乗者の耐Gを考える必要もなく、だから有人戦闘機にはできない機動を叶えることができる。空は、人間ではなく「AI」が支配することになる。
ここで目指されているのは、「AI」と人間を対立させたうえで「AI」を滅ぼすことにより、人間性を回復することであろう。「AI」という共通の敵を認識することで、分断されていた人間たちをもう一度つなぎなおす。
シナリオにこめられた二つのメッセージ。人間同士のつながりの復活と、人間性の復活というメッセージは、たしかに現代に対するメッセージとしては大事なものだ。しかし、その二つに根拠を与えるこうした「AI」像は、正直、通俗的な理解の範疇を出ないものである。「AI」ひいては「機械」と「人間」を対立させて、「人間」は「AI」ではない、だから特別である、という論理は多くのところで用いられ、大学入試改革の目標の文言にも堂々と記載されていた。だから、そのままのメッセージの解釈だけでこのゲームを遊んでも面白くはない。
しかし、一転、主人公に目を向けてみると、ある問いが浮かんでくる。
はたして、被弾しようが、僚機が無線でわあわあ騒ごうが、さらにブリーフィングでも一言も発することのないこの主人公は、敵である「AI」搭載無人戦闘機と何がちがうのか。
「エース・コンバット」というシリーズはタイトルの「エース」に現れている通り、主人公が徐々に戦局を左右するほどの英雄になっていくことをもシュミレーションできる。たくさんの僚機が「さすがだ!」「しんじられない!」という感嘆のつぶやきを無線で漏らすし、敵も「奴がきた!」と恐れをなす。
いままでの「エース・コンバット」シリーズも物言わぬ主人公に設定されていて、ムービーなども主人公の周辺の人物が主人公について様々な評価を下す場面が多くある。ムービーでは主人公の姿がはっきりと映ることはない(ぼくは「5」と「7」しかプレイしていないので、違っていたらごめんなさい)。そんな特異点としての主人公は普通プレイヤーの分身と考えられ、主人公への称賛はつまり、ほかでもないプレイヤーである僕への称賛である。
物言わぬエース、という設定は、主人公とプレイヤーとの同化を促す仕掛けであり違和感なく受け入れられただろうが、「7」においてはそれが難しい。敵がAI搭載無人戦闘機である以上、エースになるためには有人ではありえない機動を取る新型AI搭載無人戦闘機を撃墜しなければならない。もちろんのことながら撃墜をするのだが、そのような主人公はすでに、人間の域を超えている。その超越性こそ英雄であることを担保していたはずが、「7」においてはAI搭載無人戦闘機が敵であるために、英雄性と同時に敵性をも主人公に見出し得てしまうのだ。さらにAIも物を言わない。
だから、ここで奇しくも示されているのは、表面的に受け取れるメッセージ(人間性の回復)とは真逆の、人間とAIの類似である。人間性の回復の象徴が実は敵性の象徴でもあったという事実。主人公とAIは根本的には何の違いもない。物言わぬ器としての容れ物。そのからっぽの器に何を見出すのかは、周囲の人の視線でしかない。周囲が英雄と見なせば英雄であるし、敵と見なせば敵なのだ。
僚機は何を称賛し、敵国パイロットは何に恐れをなしているのか。「彼についていけば生き残れる」という特異点(シンギュラリティ)としての主人公は、「機動戦士Zガンダム」のアムロ・レイのように幽閉されることはない。「AI」との対立に勝利し、人間としての尊厳と空の支配権を人間の手に戻した功労者としての主人公は、実は敵であった「AI」と本質的に変わりはなかった。人間性とは、人間でないものの力を借りなければ証明できないものなのだろう。そんなフィクション性・脆弱さを、「7」は示してしまったといえる。と同時に、人間と人間とのつながりも何かしらの脆弱なフィクションによって担保されたものであることも示唆している。これらの気付きによって、身ぐるみをひっぺがされたような気持ちにさせてくれることこそが、現代における時代遅れの戦争シュミレーションフライトシューティングゲームの意義であるとぼくは思う。
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