私、宮内悠介さん、大好きなのですよ!(突然の告白)好きな作家さんの新刊はすぐにチェックしなければ。文庫落ちなんて待ってられない!!なので、買ってきました単行本『アメリカ最後の実験』。読み終わったので、書きます。以下あらすじと冒頭引用。
ここではないどこか、誰も書いたことがない世界を書きたい――気鋭の作家の新感覚小説!
失踪した音楽家の父を捜すため、西海岸の難関音楽学校を受験する脩(シュウ)。そこで遭遇する連鎖殺人――「アメリカ最初の殺人」とは? ピアニストの脩が体感する〈音楽の神秘〉。才能に、理想に、家族に、愛に――傷ついた者たちが荒野の果てで掴むものは――西海岸の風をまとって、音楽が響き渡る……著者新境地のサスペンス長編。
身をかがめると、雑踏の底を夜風が吹き抜けるのがわかった。
かすかに潮の香りがする。
脩はゲータレードのボトルを拾い上げ、水気に吸いついた土や蟻を払い落とす。人とぶつかり、取り落とした瓶だった。起き上がると、ぶつかった相手が帽子を取る仕草をした。祭りの熱気に、男の額は汗ばんでいる。見回した。
正直、おススメして回りたい気持ちに駆られてた。熱烈におススメされた人はその本を色眼鏡を通して読むことしかできないという不幸を押し付けるのがはばかられたため、今は落ち着いている。
『アメリカ最後の実験』っていうタイトルではあるが、一番の中心は音楽。しかも、ピアノ。僕もピアノを習っていたので、分かる感覚が多くあった。音楽、いいよね。まあ、僕はクラシックで、作中はジャズが主だったから、ちょっと違うのかもしれない。
本作の主題としては「音楽」「家族」「アメリカ」なんてものが挙がると思うのだけれど、僕は情景描写に注目したい。かなり、気を使って書かれているように感じた。
遠く、砂漠の果てに鉄塔が見える。
ハイウェイのアスファルトはひび割れ、両脇を砂に浸食され、そこに新たな草木が根づきはじめていた。視界を遮るものはなく、ところどころ低木が点在するのみだ。それを夕陽が赤く照らし出し、一面はまるで珊瑚礁のようになっている。
その中央を、ルート10が一直線に分断していた。目に入る建造物は、道路脇のT字型の広告ばかりだ。赤地にブルドッグの絵を描いたドッグフードの広告が、西海岸の大気に晒され、くすみ、色褪せていた。
このように舞台の描写が事物の様子を通して克明に描かれる。こんな風に描かれていたのは、やはり、何度も現れる脩が演奏中に幻視する荒野と重ね合わせるためではなかろうか。どこか退廃的な様子を描き出し、読者に空虚さや切なさ、どうしようもなさを感じさせる情景描写は、脩の音楽が見せる(魅せる)心象風景と良く溶け合い、現実と幻の区別がつかなくなるような、そんな浮遊感を、トリップ感を感じることができる。ヤッたことはないけど、ドラッグヤッた時ってこんな感じなんだろうか。
この退廃的な情景描写は、一方で厳然としたリアルでもある。全てが行き着いてしまった現在を、もう上がることはなく、ほぼ横ばいながら下降するしかない現在をも表しているといえるだろう。
しかし、音楽が、人間に夢を見せる。この現状を幻にできる。音楽を通してこそ、リアルで退廃的な情景描写は夢幻になり得るのだ。これは現実逃避に一つなのかもしれない。だけれど、作中に示されている通り、正気が支配した町では人は、健全に生きていくなどできないのだ。
音楽も科学だ。音楽ももう、感性のみで成り立つ分野ではない。冷徹な科学の目によって、コントロールすることができる。それでも、それだけでは到達できない場所があると、僕たちは信じる。信じたい。その場所は「不気味の谷」の向こうにあるのだろう。音楽家は凡庸な僕たちにそれを幻視させてくれる。音楽家たちは僕たちよりも「不気味の谷」の近くにいて、だからもっと苦しんでいるのではないだろうか。
コードで会話する二人の音楽家は、とても素敵だった。4小節ごとにかわるがわる演奏し、演奏で会話をしていた二人の音楽家はとても崇高だった。その瞬間の音楽は、天使の喇叭と見紛うものだったに違いない。僕は、それを生で聞いてみたいと思った。
そして、これは本だ。文字しかそこにはない。それで音楽を表すその筆致には舌を巻く。『盤上の夜』『ヨハネスブルクの天使たち』『エクソダス症候群』と上梓してきた宮内悠介の最高傑作であるといえよう(偉そうにすみません)。
脩と母親の、団地に取り残された二人の様子は、救いがなくて、でも、とってもリアルで、、、
一番好きなのはリロイと脩の連弾の場面です。
めっちゃおススメなので、みんな読もう!!
表紙も素敵。カバーを外すとルート10だろうか、ルート66だろうか。荒野を分断する一つの大きな道が示されている。その先にあるのは、「未来」、なんだろうね。
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