特別な一週間(7/1~7/7)が終わり、二人の男子高校生はもういない。でも、えてして振り返って思い出すのは、特別な日が終わった後のことである。だから、7日の次の日の今日7/8に、歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』の感想をまとめておきたい。
木下龍也×岡野大嗣 最注目の新世代歌人、初の共著 男子高校生ふたりの七日間を ふたりの歌人が短歌で描く物語 217首のミステリー
木下と岡野は同じ時期に歌を詠み始め、山口と大阪という離れた場所にありながら当初から互いを意識し、影響を受け、高めあってきました。第1歌集が共に4刷をこえるなど、新世代最注目の若手歌人です。 本書では、そのふたりがそれぞれ男子高校生に成り代わって、7月1日から7日まで、梅雨が明け暑さが迫る7日間の物語を紡いでいきます。 連なる歌に散りばめられた高校生ふたりの何気ない日常や、二度と戻らない一瞬のまばゆさ、不安定な心情が瑞々しく織り上げられ、やがてクライマックスを迎えます。一首一首が完成されながら、大きな物語を構成する、新たな傑作歌集が誕生しました。
――ナナロク社公式HPより
僕には不思議なことに、男子高校生だった時の記憶があまりない。いや、あるんだけど、自発的に思い出せる類のものが少ない。こう書くと高校時代に嫌なことがあった、みたいな感じを受けるけど、そんなこともない。むしろ楽しかった感覚だけは今も残ってる。
そんな自分の男子高校生像が確立できていない僕だけれども、『虹色デイズ』みたいなキラキラした男子高校生像よりも『玄関の覗き穴から差してくる覗き穴から生まれたはずだ』の鬱屈した男子高校生像の方がずっと等身大な気がしている(『虹色デイズ』を読んでもないし、見てもないのに引き合いに出してスミマセン)。毎日がキラキラしていて、たまに訪れるハプニング(失恋とか)にうわーっと全てを持ってかれて、なんやかんやで元のキラキラに戻る男子高校生と、毎日が鬱々していて、ふと顔を上げた時の世界の美しさを一瞬感じ取って、すぐにまた目を落としてしまう男子高校生だったら、僕は後者の方が好きだ。
ミステリーと銘打たれているから、何か事件が起こり、そしてなにかしらの解決が与えられるのだろう。短歌(和歌)というやつは大変難しく、一首だけでは何がテーマの短歌(和歌)なのかが分からない。そのことをあげつらい、批判したのが桑原武夫『第二芸術論』だった気がするけど、どうだったか。だから正直、「ミステリー」と冠されてなければ、僕はこの歌集を「ミステリー」として読まなかった。しかし逆にいえば、「ミステリー」と冠されているからこそ「歌集をミステリーとして読む」という新たな(そして挑戦的な)読みができたのである。こうした文脈設定が新しい受け取り方を生む。ただ歌集を読むのではない、面白い読書体験ができた。
『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』は7/1~7/7までの一週間をある男子高校生の目線で短歌で描く。短歌は1ページに2首ずつ配置されていて、1首の短歌の配置のされ方は高い位置からスタートしているものと、それから2字下げの位置からスタートしているものがある。前者が木下による詠で後者が岡野による詠だ。そして公式ツイッターによると、
【第3日】
— 『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』木下龍也岡野大嗣 (@tanka0701_0707) July 3, 2018
『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』。7月3日は、木下龍也さんによる短歌のみを収録した「木下」回です。ちなみに、木下さんの描く高校生は「ぼく」、そして岡野さんの描く高校生は「僕」。
ふたりそれぞれの教室での息遣いを想像してみてください。
のように、一人称の別があるそうだ(自力では気づきませんでした)。
この先書くことは飽くまで推測であって、絶対にそう、と言い切れないことだ。「ミステリー」という文脈が存在していたって、いや、しているからこそ解釈はさらに錯綜している。そして、詠者ふたりも「これが正しい解釈だ!」などと暴力を振るわないだろう。木下龍也もツイッターで
7/4の次は7/7なのか7/5なのかはおれにもわからない。
— 木下龍也 (@kino112) July 3, 2018
と述べているのだから(本書の構成が7/4の後7/7が見出しで、その後7/5、7/6と続いていく構成を受けて)。
「ぼく」「僕」ともに梅雨明け迫る7月の第1週を鬱鬱していることは間違いがないのだけれど、もやっている感情の内容が違うように思う。
「ぼく」はおそらく、死にたい、と漫然と思っている。もしかしたら親しい友人を亡くしているかもしれない。
消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く
――7/1
心電図の波の終わりにぼくが見る海がきれいでありますように
開いたら二度と閉じない扉だと知っていながら錠剤を噛む
――7/3
交叉路でGPSのぼくが死ぬぼくと若干ずれたばかりに
いま死ぬかいずれ死ぬかの違いだとその他二億の精子は言った
――7/5
閉じた目にきみが勝手に住んでいて夏のねむりをずたずたにする
(ぼく/きみ)のからだきっと(きみ/ぼく)に(ふれ/ふれられ)るためだけにある
――7/6
今はいない「きみ」を思う「ぼく」。ほかにも「あなた」っていう二人称が登場するのだが、別人なのかどうなのかはわからない。別人だと思う。そして、
ね え見て よ この 赤 今後 見せ られる ことな いっすよこの量の 赤
――7/7
という短歌。自分の手首を切ったんじゃなかろうか。この歌はなにかずれたところに感動している「ぼく」の支離滅裂さと、その行為を誰か(「きみ」?)に見せたいという他人との共有の欲求が現れていて、悲しみを誘う。
対して「僕」は、親を殺したい、というベクトルであろう。家族という核に対する反発と諦めだ。
雨がやむのを待っていたはずなのが帰りたくなかっただけだった
一人っ子に二段ベッドをあてがって下では母さんが寝ています
――7/1
ゴルフ中継の小声がリビングに満ちるとき死後めいてくる午後
あなたへのおすすめにずらりとならぶ動画はエロであなたは父で
――7/4
シャチハタの回転棚に探すとき許せなくなる自分の名字
あけてみて、ってはにかんで言われたら野蛮にやぶくべき包装紙
――7/5
高校生にもなって(二段ベッドとはいえ)母親と一緒に寝たくはないだろう。オナニーもできないし。でもオナニーは父親もしているのだ。自分も嫌いなあいつら(母親と父親)と同類なのだ。そして、嫌いなあいつらと同じ血が流れていることを否応なしに感じさせられるのは、どこにもついて回る家族である象徴「名字」。そして、
Googleに聞いてもヒット0だったからまだ神にしかバレてない
自身の公式ブログを更新した僕はタイトルを「やりました!」と題し
――7/7
と、「僕」は何かをやり遂げる。
しかし僕は、「ぼく」と「僕」は”何か”を実行に移せなかったと信じたい。なにしろ、この7月は悪魔ではなく「天使」が持って来たものなのだ。
七月、と天使は言った てのひらをピースサインで軽くたたいて
――冒頭
だから、「ぼく」には、
ザッピングしながらずっと火曜日の浅瀬に足を浸していたい
――7/6
に、実行への躊躇を読み取ってしまうし(作中7/7は水曜日)、「僕」には、
逃げながら夢とわかった足元のNikeのスウッシュ反転してて
――7/7
に、実行は飽くまで夢想だった、ということを読み取ってしまう。
という感じで、「ぼく」と「僕」に一貫性を持たせてみたが、どうだろうか。僕はこの解釈を正解だとそんなに思っていない。ただ、それでいいのだと思う。三十一文字で表現することは、情報の乏しさゆえに解釈を限定することができない。ただ、それが悪いことではなくて、短歌の良いところなのだ。良い短歌というのは、深さのあるものだと思う。ただの三十一文字が僕の心に揺さぶりをかけ、めくりめく記憶の想起や新たな風景を喚起させる。そんな深さが必要だ。一瞬一瞬の感情を、なんでもない日常の中にも存在する非日常を、大きく増幅させてくれるのが、短歌なのだ。
舞城王太郎の付録の掌編も、だらだらと続く日常を(たぶん)等身大の女子高生の目線で描く。その中にある一瞬の感情や非日常を捉えた掌編だった。
じゃなくてこれも青春だ。私はこれを選んだんだ。他の選択肢を選ばない、探さない、作らないという形で。
別にいい。何故ならこの瞬間この夕日をこの河川敷で眺めていて、他のことをしてたらこれはなかったのだ。
――「掌編1」より
舞城王太郎が女子高生の等身大の日常を描き、その中の一瞬の感情や非日常を捉えているのであれば、本歌集は男子高校生の等身大の日常を描き、その中の一瞬の感情や非日常を捉えていると、僕は思いたい。
体育館の窓が切り取る青空は外で見るより夏だったこと
この夏を正しい水で満たされるプールの底を雨は打てない
卓上の『カラマーゾフの兄弟』を試し読みして去ってゆく風
瓶ラムネ割って密かに手に入れた夏のすべてをつかさどる玉
未知/既知を隔てる紙の名でもある猫の名を呼ぶ シオリ、シオリ、と
昼下がりの床をあかるくころがって空き缶の鳴るねむたい電車
人は様々なものを抱えながら、時に沈み、時に感動しながら、夏が始まっていく。
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