この本ほど、異色なアンソロジーはないだろう。何しろ、全て同一人物なのだから!!!
乙一、中田永一、山白朝子、越前魔太郎の作品、そして安達寛高の解説が付いた、全て同じ人物による、幾つもの名義を使いこなす著者の贅沢な短篇集なのだ!
以下、惹句と表題作の書き出しだよん。
「もうわすれたの? きみが私を殺したんじゃないか」(「メアリー・スーを殺して」より)合わせて全七編の夢幻の世界を、安達寛高氏が全作解説。書下ろしを含む、すべて単行本未収録作品。夢の異空間へと誘う、異色アンソロジー。
メアリー・スーを殺すに至った動機と、その後の数年間について書こうと思う。
私という人間は、好きな作品ができると、どこまでも没入してしまう癖があった。作品のジャンルは、アニメ、コミック、ゲーム、ライトノベルなどである。退屈な授業のとき、私の愛するキャラクターを頭の中におもいうかべ、ノートの端にイラストなどを描いた。
――中田永一「メアリー・スーを殺して」より
乙一との出会いは『失はれる物語』という短篇集だったろうか。設定がかなり過激というか、かわいそうというか、僕は好きだったのだけれど、その感触のまま母親に薦めたら「気持ち悪い」と一蹴された思い出があります。。。
巷では「白乙一」「黒乙一」なる乙一への評価があるらしく、そこまで乙一さんの小説を読んでいないので、その表現が適切かどうかは分からんのだが、本書『メアリー・スーを殺して』は多分「白乙一」。甘やかな読後感のある短編が収録されておりました。
解説を付している安達寛高が本名であり、乙一、中田永一、山白朝子、越前魔太郎が別名義。それぞれで作風を変えているらしく(無知ですみません)中田永一名義は恋愛、山白朝子名義はホラーが中心であるみたい。中田永一の名前は『私は存在が空気』という本を本屋でよく見かけていたので、調べて乙一と一緒なんだ!と驚いた覚えがある。
安達寛高の解説がいい味を出していると思う。自分の作品を「~というそうだ」と伝聞したものとして解説し、つまり客観的に解説し、あくまで別人として扱っているのが面白い。
そんな中で、一番大事だと思うのは、一番初めに収録されている短編『愛すべき猿の日記』とその解説。解説にて、「愛すべき猿の日記」には
普段は削ぎ落される思想がこの短編には純粋な状態でのこっているのかもしれない。
と述べられており、とても興味深い。
「愛すべき猿の日記」には、ドラッグを服用していたりと、刹那的に生きている大学生が主人公。その彼が父の形見がきっかけとなり段々と変わっていく様子が自身を振り返る日記という形で示される。
この短編に乙一の「思想」が「純粋な状態でのこっている」とするならば、数々の名義を使い分けるこの作者に通底するその思想が分かりやすく垣間見えるということだろう。
そして、僕が感じた「純粋な状態でのこっている」作者の「思想」は、”人は誰しも愛されなければならない”というものだ。そして、不思議と”誰かが必ず愛してくれる”というものにもつながる。さらにそれは、”記述する””物語を紡ぐ”という行為と不可分なのだ、ということまで。
”記述する”そのことに直接言及しているのは、「愛すべき猿の日記」と「メアリー・スーを殺して」の2篇。二人の主人公は”書くこと”を通して自分を変化させていく。
「トランシーバー」「エヴァ・マリー・クロス」の2篇は声が、おもちゃや楽器を通して、残(遺)される。
のこすこと、そしてのこされること。そこに生まれるドラマが切り取られる。愛があるから何かをのこし、愛があるからのこされる者は苦悩する。
ほかの短編「山羊座の友人」や「宗像君と万年筆事件」、「ある印刷物の行方」は扱われているテーマが非常に重いものばかりであるが、読後、そこまで暗澹たる思いをしないのは、登場人物が全員、誰かから愛されているからだ。そこには作者の、優しく、そして希望に満ちた眼差しが感じられる。
社会的に弱いもの(ここではいじめられっ子、貧乏人の子ども、人ならざる人)であろうと、だれもが愛し、そして愛されるべきなのだ。だから、前を向くんだぞ。そんなやさしさに包まれた良い短篇集でした。
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