宮内悠介『アメリカ最後の実験』を読んでから、音楽にまつわる小説を手に取ることが多くなった。本作、『ヘッドフォン・ガール』もその流れから。高橋健太郎氏は本業は音楽評論家であり、小説家ではないらしい。文体や構成に関しては、ちょっと安易かなあと思うところもあったけれど、その、音楽への造詣の深さは本物ですた。以下、あらすじと冒頭引用になります。
行方不明になった伯母の家で、カズは近未来の地下鉄車内に飛んでしまう。しかもヘッドフォンで音楽を聴いている女性の身体の中に。目の前の光景は本当の未来なのか?好奇心に駆られて、カズはタイムスリップを繰り返す。伯母の教え子だったヴァイオリン奏者のリキ、ドイツの伝説的ミュージシャン、ジーモンと彼の祖父が遺した戦前のリボン・マイク、ベヒシュタインのピアノ、京都の老技師――数十年の時を超えて巡り巡る因縁が、ひとつの音楽の中で響き合う。
友人達はどこか南の島に皆既日食を見に行く相談をしている。オレも誘われたが、仕事の都合がつきそうにない。それ以前に、きっとお金のかかる旅行だろう。無理で良かった。そもそも、皆既日食を見たいなんて思ったこともないのだから。ただ、友人達に誘われなかったら悔しい。それだけのことだった。
宮内悠介『アメリカ最後の実験』は音楽を奏でる音楽家の話、佐藤多佳子『第二音楽室』は学校空間での音楽の話だとするならば、高橋健太郎『ヘッドフォン・ガール』は音楽を紡ぐ道具の話だ。
音楽を奏でるのならば、楽器がなければならない(身体も楽器となり得る)。そして、その楽器が鳴らす音を届ける物も必要だ。当たり前だけれど、よくよく考えればとってもすごい。
家に居ながらにして、なぜ音楽を聴くことができるのか。それは生演奏がマイクを介し録音機器に録音され、複製され、我々のもとへ届けられる。この分野に関しては門外漢なので、おそらくもっと複雑な行程を踏んでいるに違いないと思うが、ぼくにはこれ以上分からない。しかし、それぞれの行程に考えられないほどの技術やこだわりがあるのだ。そのことを本作を読んで知った。
今の時代はデジタルの時代。全てデジタル化され、音も0と1の配列に組み替えられる。それはどこか均質なのだろう。だからこそ、最近ではカセットテープやレコードなどのアナログ機器にこだわる人も出ている。登場人物の一人、ジーモンもアナログをこよなく愛する音楽家の一人として登場する。
本作はアナログへの懐古と郷愁を孕んでいる。アナログ機器が数多く登場する。それらの登場と、本作のタイムスリップという仕掛けは無関係ではない。作中でも言及があるように、カセットテープを「巻き戻す」という行為は過去へのタイムスリップと相違ないのだ。
思えば僕もカセットテープで音楽を聞いたことがある。音楽と一緒に動くカセットの様子、カシャッという音と共に、音楽が終わり、巻き戻しのボタンを押すとシャーッという音を立てながらカセットが逆回り。それを飽きもせず小さい頃の僕は眺めていた。その小さなタイムスリップを僕は楽しんでいたのかもしれない。
カズは未来へタイムスリップする時、地下鉄内にいる女性に乗り移るという形でタイムスリップするわけであるが、地下という空間も異様だろう。本作の舞台は地下鉄日比谷線だが、大江戸線に乗ろうとしたとき、延々と続く地下への回廊にめまいがしたものだ。なにか吸い込まれていくような、あの感覚は、タイムスリップをしている最中のような印象を受ける。いや、実際にタイムスリップしたことはないけれども。ここではないどこかに連れて行かれるような、そんな感じ。
スライド映写機によって未来へタイムスリップするカズだが、スライド映写機は基本的には過去をスクリーンに映すもののはずだ。だから、カズは未来の誰かに呼び出されている、そんな気がする。
無気力で代わり映えのしない毎日を送っていたカズは、未来を覗くことによって、能動的に人生を送ろうと行動し始める。そして、止まっていた歯車が動きだしそうになったその瞬間、カズは気付いてしまうのだ。
映写機によって未来へと呼び出されるカズと、何度もカセットテープを巻き戻すことによって過去へとタイムスリップするリキ。両者の奇妙な交流は、希望に満ち溢れつつも切なさを湛えたものであった。その結末は、ぜひ本書を読んでみてほしい。
地下鉄の入り口はね 宇宙につながっているの
誰も知らない私だけの秘密
青く光る惑星はあなた 私は月夜を照らす ただひとつの光
――ショコラ「宇宙のトンネル」
CHOCOLAT | 宇宙のトンネル
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2016.03.27 15:50
2016.03.27 15:03