映画「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」感想 衣服/兵器としての”スーツ”

 前々から見たいみたいと思ってて、配信方法が限定的すぎてなかなか見れなかった本作。「機動戦士ガンダム サンダーボルト」。いやパソコンなら見れたのだけれどクレジットカードを持たない僕には支払方法がなく、八方塞がりだったんですよね。しかしわが家に降り立った神の機械、「プレイステーション4」。おうちにいながらにして様々な映画、アニメを見ることができるしかもテレビで!さらにBlu-rayディスクも見れるってんだから神様仏様PS4様。ありがとうPS4!ありがてえありがてえ、、、


 話が逸れたがこの作品について書いていこうと思う。ガンダムオタクだとしたら、見ておかねばならぬ作品であったと思われます。以下、PVとあらすじ。

宇宙世紀0079、地球連邦とジオン公国が戦った一年戦争の末期、サイド4のスペースコロニー群、ムーアはジオン軍の攻撃により破壊され、多くの住人が命を落とした。破壊されたコロニーや、撃沈された戦艦の残骸が無数に漂う暗礁宙域では、ぶつかり合い帯電したデブリによって絶えず稲妻が閃くようになり、いつしかそこは、『サンダーボルト宙域』と呼ばれるようになった。ムーア市民の生き残りで構成された地球連邦軍所属部隊、ムーア同胞団は、故郷であったサンダーボルト宙域の奪還を悲願とし、宙域のジオン軍を殲滅せんとしていた。連邦の進軍を足止めせんとするジオン軍も、義肢兵の戦闘データ採取を目的に設立されたリビング・デッド師団を展開。ムーア同胞団に所属しながら、故郷や自身の出自に束縛される事を疎ましく思うイオ・フレミングと、過去の戦闘により両足を失い、今はリビング・デッド師団でエーススナイパーとして活躍するダリル・ローレンツは、戦場で対峙した時、互いに悟るのだった。ふたりは、殺し合う宿命なのだと……。

――「機動戦士ガンダム サンダーボルト」公式サイト「STORY」より

(細かい設定や登場人物は公式サイトから見てね!)


 ……ガンダムってーのは、こう、固有名詞(しかもカタカナ)の多さが初見の方へのハードルを上げているような気がしないでもない。この記事もスゲー読むハードル上がってる気がする。でも、これが”良さ”なので、是非どっぷりつかって欲しいものですな(ガンダムオタク老害感)。


 閑話休題。ガンダムオタク略してガノタの間ではもう、常識も常識の事実があるのだがそれはモビルスーツはロボットではない、ということである。「どっからどう見てもロボットだろ!!」とかいうツッコミが聞こえてくるようであるが、ガンダムシリーズのモビルスーツ(MS)は違う。スーツすなわち”服”なのだ

――ダリル・ローレンツ駆る「リユース・P・デバイス装備高機動型ザク」通称「サイコ・ザク」

 

 作中人物が宇宙空間を遊泳する時、着ている宇宙服を「ノーマルスーツ」と呼ぶ。その延長としての「モビルスーツ」なのだ。衣服は身体の機能を補完し、拡張する働きを持つ。そして自己顕示の道具でもある。モビルスーツもこのような機能を持つものとしてここでは考えなければならない。シャア・アズナブルが頑なにノーマルスーツを着てモビルスーツに搭乗しようとしなかったこともこのことに起因する。


(※このことは一年戦争時代に限り、ジオン公国側の論理であることは付言しておいていいだろう。モビルスーツ開発に乗り出したとき、ジオン公国側は始めから人型での設計であった。当たり前であろう、スーツだからだ。しかし、それに対する地球連邦軍はジオン公国のモビルスーツに脅威を認め自らその開発に着手した時、その原型は「ガンタンク」であった。下半身がキャタピラ、上半身が人型の戦車と人型のキメラ。そう、地球連邦軍はスーツではなく兵器を開発したのである。この考え方の違いから、モビルスーツ戦闘の戦術の差が生まれ、最終的にあのア・バオア・クー戦に繋がることは言うまでもない)


 さて、このことを念頭において、本作を見れば、ジオン公国側の人員たちが「リビングデッド師団」と呼ばれ、その構成員たちが何らかの四肢を失いつつも戦うことを強いられているのは、なにも物語のストーリーの悲劇性を強めるためだけではなかったことが分かる。


 ここでは、モビルスーツと搭乗者の身体性を問題にしているのだ、と僕は思う。


 ダリルは両足が無いながらも、「サイコ・ザク」に搭乗する前からエーススナイパーとして仲間から慕われていた。エースだからこそ、「サイコ・ザク」のテストパイロットもしていたわけだが、その場面は非常に印象的だ。


 ダリルが「サイコ・ザク」のコクピットのフットペダルにあたる場所に両足の義足の先端を突き刺す。そして、壁に繋がれている「サイコ・ザク」の足を動かす。過去を回想しながら。少年時代のダリルは海辺の砂浜を駆けている。たまに飛んだり跳ねたりしつつ。そしてその回想のダリルの姿と「サイコ・ザク」の挙動は一致する。まるで自分の両足がもどったかのように。そしてテストが終わった後、ダリルは失われた足を想って涙を流す。


 ここではモビルスーツは失われた身体の機能の補完の役割を果たしている。この経験がなければダリルは後の戦闘でかろうじて残した左腕の切断という決断を果たせなかっただろう。このようにしてダリルは両手両足を失い、だるまのような体になって「サイコ・ザク」へ搭乗し、かたき討ちへと出撃する。


 この辺からモビルスーツは身体の機能の拡張という側面が急激にせり出してくる。イコール、兵器の側面としてと言ってもいい。衣服(=モビルスーツ)に適応するために身体を切断するなど、本末転倒もいいところではないか。しかし、自由に自分の手足のように(比喩ではなく)動かせるモビルスーツの魔力に魅入られた青年は、その唯一残った左手を切り落とす。


 この作品の一番の悲劇は、愛する者の死でも、盾になるしかない少年兵たちでも、死にに行けと命令しなければならない艦長の重責でも、一寸先の死でも、出自や血統に縛られてしまうことでも、ないと思う。


 それは、サイコ・ザクとガンダムの一騎打ちが終結し、ジオン公国軍と地球連邦軍の総力戦、「ア・バオア・クー戦」において現前する。先の戦闘を生き延びたダリルはサイコ・ザクを失っていた。四肢を失っているダリルは義手義足でゲルググの量産型を駆るのであるが、義手の左手(切断した左手!)がうまく動かず操縦桿が握れない。目の前に迫るビームサーベル。握れないから逃げられない……


 もう、ダリルの「モビルスーツ」は衣服としても兵器としても十全な機能を果たさない。目の前のゲルググは手足のようには動かない。そのことに生と死の境界線上で目を見開くのだ。

 現在地上波で放送されている別のガンダム「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」でも、「アラヤシキ」というガジェットを使い身体性についての描写がなされている。右半身が動かなくなった三日月・オーガスはこの先どうなっていくのかは見守っていくしかない。「鉄血のオルフェンズ」については以前以下の記事に書いたので、どうぞ。

 あと、作中で流れるフリージャズなど、最the高の一言なので、聞いてみて!

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