宮内悠介『偶然の聖地』感想 あたまでっかちで世間知らずの旅

 今、テレビで芸能人の作品を「才能アリ」だとか「才能ナシ」だとか判定している。「才能」……こういうテレビを見ていると「才能」とは相対的なものである気がしてくる。俳句の権威が「この句は良い」と言うから「才能アリ」、生け花の権威が「この生け方はダサい」と言うから「才能ナシ」、権威あるだれかに認められてこそ「才能」なるものは見出される。でもしょうがないのかもしれない、ぼくは「才能」を絶対的なものとして捉えたいけれど(うちの子はやっぱり天才!!、みたいに)、そう信じているぼくだって勝手に他人と比較して自分に「才能ナシ」の烙印を押している。


 車の試乗に付き合わせた友人に「お前の運転の練習がてら明日旅行行こうぜ、明日暇?」と誘われた。よっぽど下手だったらしい(ここで「らしい」という推定をおくのはズルいだろう、ぼくははっきり運転の「才能ナシ」加減を知っているはずだ)。急遽、車をレンタルして富山と金沢に行くことになった。しかも下道。これは旅だ、ちょうどいい、と思ってこの『偶然の聖地』を片手に出発した。本を読んでる暇はとんとなかったのだけれど。


 この旅行はとても楽しかった。富山でたべたホタルイカの寿司はめちゃくちゃに感動したし、路面電車の走る富山市街地はそれに乗るだけで楽しかった。富山城址のお堀にはアオサギがいて、羽根を広げて飛んでいる様子がかっこよかった。金沢の兼六園は雨が降っていて、色味の薄いその景色は色彩がうるさい日常の景色から遊離していてとてもよかった。


 しかし、感傷的になってしまったのも事実である。「お前、なんも知らないのな」「全部はね、経験よ。経験しないと」そう言った友人には悪意はない。でもぼくは傷ついてしまっていた。


 駐車、車線変更、カーブがうまくできないぼくは運転中、または助手席で、ぐるぐると思考を続けていた。その旅行後の埼玉への新幹線の自由席でも。旅とはそういうものなのかもしれない。自分をみつめなおし、内省するきっかけなのかも。だけどそれは「人生観が変わりました!」と声高に誇りかにSNSで宣言するようなそんな楽しいものではなかった。ただただ辛いことのような気がする。


 駐車も車線変更もカーブも、実際にハンドルを握るという経験を通さないとうまくはならない。運転中、自動車学校に通っていた時分を不意に思い出した。はじめてマニュアル車に乗り運転した時の、ハンドルがうまく切れずカーブが曲がれなかったことや、力が入りすぎて2速から3速に入らず1速や5速に入ってしまっていたこと、半クラッチ中僕の左足がガクガク震えていたこと。


 旅行は驚きの連続だった。そんなことも知らないのかよ、といいたげな友人の顔がこちらを見つめている。「全ては経験なのだ」という哲学を持っている彼からすれば当然の反応だろうし、なんだこの世間知らずは、という思いの積りから「お前、なんも知らないのな」の発言なのではないか。世間知らずとは言われていない。でもたぶん、いや、絶対に思われている。そう思っている。


*070【演繹(えんえき)】昔mixiというSNSが流行っていたころ、後輩から「宮内さんは(言ってることは滅茶苦茶なようだが)演繹して書いています」と言われた。括弧内は被害妄想かもしれないが、ぼくの持論として、被害妄想というのは、おおむね当たるようにできている。


 おもえば、ずっと頭の中で何かをこねくり回していた人生だった。授業の自己紹介で「ぼくは本を読むのが好きで、映画を見るのが好きで、音楽を聴くのが好きなんですよね」なんて言っているわけだが、まさにこの自己紹介は的確だと思う。ぼくが相対しているのはインクの染みであり、射影機の送る光線であり、スピーカーから震える空気である。それらから立ち上がるイメージを享受するだけで満足してしまっている。


 だから、なのかもしれない、ぼくは臆病なのだとふと気づいた。もしくは臆病であるという事実から目を逸らしていたことに気づいた。たぶん、確たる実在に相対するのが怖いのだ。鉄の塊をペダル踏むだけで操作すること、風を切るときの内臓がちょっと浮く気分になること、初めて会う人と話すこと。ぼくは怖い。また思い出した。ぼくはドラえもんのひみつ道具の中の、「デンデンハウス」に惹かれていたこと。


 著者、宮内悠介の註が(0も含めれば)320個もついた『偶然の聖地』。その註から伺えるのはぼくの恐れている実地の経験に裏打ちされた、知識の数々。著書に出てくる情景は、目的の山「イシュクト山」はともかく、それ以外の実在する街並み――世界一つまらない街らしいパキスタンの首都、イスラマバードとか――や言語――反舌音なる難しい発音があるウルドゥー語とか――は著者が実際に経験し、そして思い出や郷愁を誘うまでに大きな存在となっているものだろう。『偶然の聖地』自体は一本の小説でもちろんフィクションなのだが、320個もの註で著者の自伝のようにも読める。なんなら、主人公の”わたし”こと「怜威」の音「レイ」は、著者が女性に生まれた場合の名前らしい。この情報も註に由来する。


 註の「*000」では「ある打ち合わせの場でぼくはこう述べた。「『なんとなく、クリスタル』方式でもいいですか」――」とあるが、『なんとなく、クリスタル』よりも著書の註は著者自身の思索が色濃く反映されている。だからぼくはここまで著者に嫉妬し、そして羨望を抱いているのだ。また、だから、『偶然の聖地』の感想と銘打ってぼくの旅から考えたモヤモヤを書き綴っても矛盾しない、はずだ。


追伸

 ぼくのブログは「YOUTOPIAを目指して。」という親戚のおじさんに「センスないね(笑)」と言わしめたタイトルなのだけれど、作中に『桃源郷を目指して』という恐らく『偶然の聖地』のほかのタイトルの候補だったものが登場していて、なぜだかうれしかった。もちろん、著書のタイトルやその候補が「センスない」ということではありません。

0コメント

  • 1000 / 1000