卒業論文を書くために、硬い文章ばかりを読んでいた。だから、そのリハビリに選んだ本作。一作目は結構前に読んでいて、その後放っておいた二作目を手に取った。以下あらすじと書き出し引用。
常守朱監視官が指揮する公安局刑事課一係。六合塚弥生執行官と分析官・唐之杜志恩は、未成年妊婦を拉致しては出産後に惨殺する謎の集団<箱舟>を追うが、やがて弥生は意外な人物と再会する――TVアニメ1期後の事件を描く「About a Girl」、若き監視官の宜野座伸元がアニマルセラピストによる<動物の再導入>事件を追う書き下ろしの「別離」。全2篇収録の『PSYCHO-PASS サイコパス』スピンオフノベライズ第2弾
「About a Girl」
死ねない。それだけを願って吐き出す息は、白くなる前に冷たい雨に掻き消された。
刻一刻と躰の節々が軋んでいき、身動きが取れなくなっていく。川面に降り注ぐ雨粒が凍りつき、無数の氷柱が天に突き立ちそうなくらい寒い夜だった。真っ黒な川は、宵の入り口からの豪雨によって水嵩を増しつつあって、しっかりと踏ん張っていないと流されてしまいそう。なのに、渾身の力で引き摺っている彼女は、むしろ川の流れの果てにある楽土に向かおうとするみたいに、微動だにしない。
あらすじ(というか、惹句)に書かれている通り、本作はTVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』のスピンオフノベライズだ。このアニメは大きく展開しており、2クールの第1期、1クールの第2期、そして劇場映画化もされている。その展開の中で本書も企画されたものだろう。ただアニメの内容をノベライズするのではなく、その周辺、すなわちそれぞれのキャラクターの掘り下げ、そしてシュビラシステムの成り立ちなど、オリジナルのエピソードを用いて、『PSYCHO-PASS』の世界を補強しようとするためのノベライズ。公式スピンオフ作品であり、アニメのみからでは分からなかったことを知ることができる。
本作では同性ながら恋愛関係である六合塚弥生と唐之杜志恩を中心とした「About a Girl」と、宜野座伸元を中心とした「別離」が収録されている。どちらもかなり重いテーマを扱っており、解決する事件を簡潔に表記すると、(ネタバレになるため書かないが)かなり猟奇的なものである。しかし、それが明らかになった瞬間のみはギョッとするのだが、それだけであり、あっけないほどにさっくりと結末まで読めてしまう。
その様は、シビュラシステムによって不都合なことが覆い隠される『PSYCHO-PASS』の世界観と妙にマッチする。本作はそのことを直視し、覆い隠された真実を暴き出す公安局の人物を描いているのにもかかわらずだ。僕ら読者の猟奇的事件に対する違和を急速に麻痺させていく。間違いなく作中では事件を断罪し、解決へと導き、登場人物たちは決意を新たにするのだが、読者である僕と語り手である登場人物(六合塚弥生や唐之杜志恩、宜野座伸元)との温度差が生じてしまう。
この体験はシュビラシステム下での普通の人々の体験と同じではないだろうか。シュビラシステムとは、ニコニコ大百科に記載されているまとめによると、
サイマティックスキャンにより読み取った生体力場を解析し、人間の心理状態や職業適性や深層心理などを分析数値化することで、従来は目に見えなかった心の健康状態を診断し、適性や能力に見合った職業を提案し、趣味嗜好に沿った新しい娯楽を提示するなどして、人々がより充実した幸福な人生を送れるよう支援する生涯福祉支援システム。
数値化という誰の目にも明らかなバロメーターが出たことで、心の健康を保つために効果的なセラピーやサプリメントなど明らかに結果が出るメンタルケアが発達し、職業適性診断により労働者と雇用者のミスマッチが解消されて失業者はほとんどなくなり、犯罪者や犯罪を犯しかねない状態の人間(潜在犯)は街頭スキャナによりすぐに把握できるようになったため治安は改善した。
と説明されている。人間はシュビラによって支配されている。シュビラが未来を決め、その人自身をも決定する。しかし、すべてのシステムがそうであるように、シビュラシステムも完璧ではない。数値を正常化させるために犯罪を犯す人々や、そのシステムの恩恵を受けることのできない人々という存在が出現する。それらの闇を暴き、解決へ導く過程が本作では描かれている。
シュビラシステム下の人々は数値を正常値にとどめることに腐心する。時に、その手段を選ばない。度が過ぎると事件になるが、自分の数値を守るために都合の悪い物事から目をそらすということは常套的に行われているのだ。うっかり自分の色相(シビュラから与えられる数値のこと)が濁らないように、自分に都合の悪いことには目と耳を塞ぐ。
本書を読んでいるということは色相が濁るという行為を僕はしていることになる。心穏やかになる本を読んでいるわけではないからだ。しかし、一瞬の色相の濁りからすぐに復帰するといったような自分を麻痺させるという感覚は、巧妙に事件から目を逸らしていることに他ならないのではないか。しかも、それを僕の努力ではなく、読んでいる本からその本の軽妙な語り口によって要請される、強要されるということが特筆すべきであろう。
本書のシビュラシステム下での社会の闇を暴くことによって、現代社会に警鐘を鳴らしながらも、起こっている出来事とそれを記す文章の温度差が警告しているはずのことを実際に表してしまっていることに皮肉を感じる。
まあ結論、何が言いたいかというと、扱うテーマと文章の軽さがミスマッチしている、ということです。本を読むとき、初読の際は没入感がかなり大事であると考えていて(それこそ登場人物と共に喜怒哀楽をともにするような)、その没入感があってこそ、その本に描かれたテーマが真に迫ると思っています。この文体がバッチリ適合する層には、本書が扱うテーマは重過ぎる。と思う。
吉上亮さんの作品は以前取り上げた「未明の晩餐」の方が好きです。
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