トークイベント 最果タヒ×福永信「言葉が分裂する」(@la kagu2F soko) 感想

 やっと東京での遊び方を覚えられたような気がする。さすが文化の発信地・東京。略してさす東。東京だから作家に会えるし、新刊もすぐに手に入るし、サイン本も手に入れられるし、自分の名前まで入れてもらえたりする。来年からこの東京から離れなければならない。ので、今のうちに行っておくしかない!!


 ということで、最果タヒ×福永信「言葉が分裂する」、行ってきました。以下、公式サイトより詳細引用。


史上初?! 〈不在〉のゲストと「LINE」で言葉を交換しながら、言葉の進化を(もしかしたら退化も)体感するトークイベントを開催します。
リリカルなナイフで言葉の地平線を切り開く、気鋭の詩人・最果タヒさん。
(中略)
トークイベントと言っても、今回言葉のやりとりに使われるのは、「LINE」です。会場にいる福永さんが、会場には〈不在〉の最果さんと、テキストと絵文字で対話し、その様子をスクリーンでご覧いただきながら進めていくという、sokoでも初めての試み。なんと、LINEを使って福永さんと詩の共作も予定しております。史上初の企みに満ちたイベントで、言葉の未来を感じにいらしてください! 最果さんがこの日のためだけに作成する、直筆サイン入りの「お土産」もご用意してお待ちしております。


 このトークイベントは新潮文庫NEXから『空が分裂する』が刊行された記念イベントでもありました。最果タヒ『空が分裂する』は以前このサイトで感想を書いた。

 今回のイベントは三部構成。最果さんの担当編集の方(講談社と新潮社の方)たちを中心に本そのものに対する対談が第一部。参加する際にした質問への答えもここで明かされました。がしかし、LINEを介してしか最果さんとコンタクトをとることができない弊害で応答にタイムラグが生じてしまい時間がかかってしまうからだろう、なされた質問は5つ。うち、参加者からの質問は2つ。僕はぜひ最果さんに季節を(特に夏を、次点で冬を)どう捉えているか聞きたかった。春は、夏は、秋は、冬は。最果さんにとってどんな季節なのか。その答えは最果さんの詩を読んで考えることにしよう。


 第二部では参加者から集めたキーワードで最果さんが詩を作る。第三部は福永信さんと最果さんがLINEを通して詩をまさにリアルタイムで共作(競作?)した。第一部も興味深い話だらけで、まとめていきたいのだが、今回はこの第二部と第三部(特に第二部)を中心に感想を綴っていきたい。


 参加の申し込みをするときに言葉(語句)を提出してあったのだが、それらを使って最果さんが新作の詩を作ってくださった。申し込みの説明書きの書き方からして、使用されない言葉の方が多いような気がしていたが、全然そんなことはなく、むしろほとんどの言葉を使って2編の詩が作られていた。


 詩の生成過程がアニメーションで示されて、それを見ている僕たちは詩を作ることを追体験しているみたいだった。厳密には追体験ではなく、最果さんの詩を作る時の思考の道筋をたどった、と言ったほうが正しいか。最果さんのツイッターではこんな風に、

詩を書く過程のgifアニメを作ってあげてくださっているが、今回の試みは最初からキーワードがあることが最大の違い。脈絡のない語群の数々をあっという間につなげて一つの作品(物語、と言ってもいいと思うし、絵画、といっても遜色ないのでないか。詩だもの)を作り上げていくその様は圧巻だった。福永さんの「なんか切ない(寂しい、だったかな)ですね」というコメントもなんかわかった。なんとなく。でも、詩の生成を見せつけられて感じた切ないという感情は確かに存在していた。


 僕が送った言葉は「進路」。そのころ進路について悩んでいたという、陳腐でありきたりでごくつまらない理由でこの言葉にしたのだが、この言葉を使ってフレーズが形作られるのを目の当たりにし、感動に心が高鳴った。あの感覚は久しぶりだった。「首都高も進路もカーブを作って、ぼくの背骨に沿いながら、」というフレーズが完成したわけであるが、一度「進路」を「進路調査」として、タイトルを定めた後、最後にまた「進路」に戻す、という過程を見た。


 首都高という言葉から「進路」は「北北西に進路をとれ!」とかの(1)「進路」(ナンバリングは便宜上便利なため)がイメージされるのが普通であるが、調査という言葉があとに続くだけで「将来の進路」とかの(2)「進路」が思い浮かぶ。僕の悩みとは裏腹に「進路」を最果さんは(1)の意味でとったんだな、とはじめ納得し少し残念に思いながらも言葉の面白さを感じていたのだが、その後「進路調査」と修正したことで(2)の意味で最果さんが書いていたことがわかって、勝手に打ち震えてた。でも最後に「進路」とだけにしたのは多分、(1)(2)両方の意味を「進路」という言葉に求めたからだろう。「首都高」と「進路」を二つ並べてセンテンスを作るその言語感覚は、さすがである。そんな言語感覚に僕は感動した。


 第3部の詩の共作はみていてハラハラした。1分間の持ち時間で言葉を紡いでリレーしながら1つの作品に仕上げなければならない。そして取り返しがつかない。書いて送った後、福永さんが「書き直したい、、」と頭を抱えていたのが印象的だった。それでもまとまってしまうのだから、作家は偉大だ。


 何かが生み出されるその過程を我々は日ごろ、見ることはできない。非常にプライベートなものであることの証明だろう。何かを生み出している人にしかその過程は露見しない。今、このブログを書いている過程を見ている人は、この僕だけである。他人は完成品しか目にすることはない。完成品からこの人はこんな風に思いながら書いたのだな、こんな過程を踏んでいるんじゃないか、と考えることしかできない。それが感想であって、分析だ。と思っている。

 

 そんな最もプライベートな部分を今日、垣間見ることができた。福永さんがどこか恥ずかしそうな顔をしていたのはそんなところにも原因があるのかもしれない。


 リアルタイムに言葉が紡がれる瞬間、それは発声に似ている。声に出した言葉はもう取り戻せない。LINEにのせた言葉も、取り戻すことはできない。その意味で、LINEを使ったリアルタイムの今回の企画と発声は共通すると言えるだろう。しかし、発生した言葉は他人や自分に記憶されるかもしれないが、発声した言葉そのものを記憶することはできない。その言葉に自分や他人の解釈が付与されるからだ。何の属性も付与されていない発声された言葉は確認しようとしてもすでに、胡散霧消していて姿かたちもない。僕たちは確認する術を持ちえない。対して、LINEは文面が残り続ける。すなわち、何の属性も付与されていない言葉が何度でも確認可能なのだ。その反復が何をもたらすか。それは言葉の解釈の多くの「分裂」を引き起こすことではなかろうか。


 発声による言葉の解釈はその場、その発声が行われた時のみに起こり、言葉の解釈の分裂は一度だけである。しかし、文面が残ることによって反復が可能になった言葉は、まっさらな言葉を見返すたび、言葉の解釈があまたに分裂していくことが可能になっているのではないか。僕たちはそれを「読む」という行為の中で日常的に行っていることであると思うが、それを「話す」という行為の範疇に取り込み、実践していることに大きな意味があると思う。「言葉が分裂する」、素敵なタイトルだ。


 ここで長々と書いているこの文章は「分裂」された「言葉」の中の1つだ。あなたに残った「分裂」された「言葉」も、きっとあるし、自信を持っていい。「言葉」は自由だ。そしてその「言葉」を何らかの形で表現すれば(このブログ感想のように)自然と「分裂」していくんじゃないだろうか。それは素敵なことだと思う。


 まだまだ言葉だけの存在なのに宿る「最果タヒ」の身体性とか、書いてみたい欲求があるんだけど、ここまででも何言ってんだこいつ感が満載なので、ここら辺でやめておくことにします。


 非常に刺激的な2時間だった。他人のプライベートを覗くドキドキ感。そこからのぞかせる作家、詩人の言語感覚、言語センス。本当に楽しかった。

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