『ユリイカ 平成28年8月号「あたらしい短歌、ここにあります」』感想

 「『ユリイカ』持ち歩いている人ってかっこよくね?」なんて会話をしたことがある。心の底からピュアな僕は「そうなんだ!!!」と思って、雑誌『ユリイカ』を一時期持ち歩いてました。はは。


 『ユリイカ』は青土社から出ている芸術評論集。「詩と批評」っていう副題がついてます。なかなか取り扱う範囲が幅広く、面白い。近刊では新海誠も特集されます。ほかにも、不思議の国のアリスとか、森博嗣とか、西尾維新とか。そういったものからダダのシュルレアリスムまで。


 そして今回は短歌です。あれです、「五七五七七」からなる31文字の小宇宙。


 僕はそもそも「詩」というものが嫌いで、でもここ最近好きになった、なんてことはこちらに書いたけれども、その影響で「短歌」にいくのも自然な流れだった。


 かの高名なロラン・バルトが「作者の死」を提唱して以来、テクスト論なる理論が主流となった。僕みたいな末端も末端な国文学の研究した人ですらテクスト論に基づいて論文()を書いていたのだから、その浸透率や、だろう。


 つまり、書かれた文字は書かれた時点で独立し、そこには書いた人はもはや介在しない、てな感じでしょうか。この理解も一面的なもので、怒られそうでびくびくしておりますが、、、勉強し直さなければ、、、

作品が成立した当時の作者の状況を、あまりにも作品の出来に重要なファクターとして扱いすぎていたことへの反省であり、作家ではなく作品を見なければならない、という警鐘であったと思います。もちろん、テクストのみに固執し、作家や時代背景を完全に無視しろ、という理論ではない。


 そういった理論が文学で大前提になっている現在(それももう見直しの段階になっている)、〈私性〉なるものが、つまり、作者の息遣いが、いまだに前提になっている世界があることにまず驚いた。言わずもがな、短歌である。


 短歌から透けて見えるその作者の心性がいまだに歌壇の心をつかんで離さないらしい。そのことを痛烈に批判しているのが、吉田隼人の「現代短歌とフランス文学 抒情詩の〈私〉をめぐって」であるが、この雑誌に収録されている論文には〈私性〉肯定派と否定派に大きく分けられるような気がする。本雑誌の中で肯定派の急先鋒は(攻撃的な書き方だから、ってだけかもしれないけれど)枡野浩一だろう。


 吉田は

一冊の歌集、一篇の連作を読みながら、それこそ「作品と作者と〈物語〉」を無前提に「事実」として一緒くたに扱いたがる奇妙な慣習がちょっとやそっとでは揺るがないという、その〈私性〉のしぶとさに怖れをなすのである。

――吉田隼人「現代短歌とフランス文学 抒情詩の〈私〉をめぐって」

と、批判しているのに対し、枡野は、

短歌って結局「人生こみ」じゃない。「誰が言ってるか」が問われるジャンル。むしろ、それだけと極論してもいいぐらい。

――枡野浩一 佐々木あらら「対話篇 またいつかはるかかなたですれちがうだれかの歌を僕が歌った」

と断定している。


 ここまで両者のように立場をはっきりさせているのも珍しいが、読んだ感じ、ここに論考を寄せている歌人たちの立場は正直透けて見える。今、〈私性〉が短歌界でホットな話題なのだなと、感じたことと、時代遅れなのだなと感じたのも正直なところ。


 僕自身の立場は〈私性〉をそこまで重要視する必要はないかなあと。しかし、たとえば、僕が短歌を書くとして、その書かれた短歌は書かれた時点で僕の手から離れ、独立した生を受けることになるのだけれど、生み出したのは紛れもない僕なのであり、いわば、その短歌は僕の分身なのである。だから、僕とは不可分な関係になるわけで、どうしても〈私〉からは離れられない。どちらかを神聖視するわけにはいかず、よいバランス感覚が求められる。


 そんなこと思いつつも、僕がいいなと思う短歌は作者の背景は関係ない。お、素敵!と思う歌は、どうやら時間と空間を超えたものが好きらしい。たったの三十一文字なのに、はるかかなたを見せてくれるもの。あと逆に、ささやかすぎるものを非凡な言語感覚で切り取っているのも好きだ。


八月を
君にゆっくり届きたい俺に
宇宙がよこす各停

――雪舟えま「愛たいとれいん」より

春の船、それからひかり溜め込んでゆっくり出航する夏の船

――堂園昌彦

雨受けて川面に雫さんざめく合羽のフードが音響装置

――ミムラ「記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱」より

多すぎもせずおかわりも言われないそういうごはんの茶わんになりたい

――斉藤斎藤「ミヤネ屋を見る」より


 そして、一番良きと思ったのはルネッサンス吉田の「双極卍解/わたしはくたばりたくない」という連作です。

デュロキセチン処方Max服薬すれば過活動性的逸脱観念奔逸
減薬すれば息をする塵死ぬ気力すらない
赤い赤い赤い夕焼けは豪華絢爛この赤を赤いと感じる心のままで
わたし走るの火地獄(ゲヘナ)まで
夜中突然正気に戻るごめんなさい私もう無理何もかも愛してるけどもう本当は

 ――ルネッサンス吉田「双極卍解/わたしはくたばりたくない」より


 実はもう二つ、非常に中二病チックな歌が収録されているのだけれど、最後の「夜中突然」に回収される。「かくもこの世は生きづらい」。こんな世の中は、ただ立っているだけでも苦しい。心を摩耗させれば感覚が鈍磨になって気にならなくなるだろうがそれも嫌だ。だから、「卍解」しただ生きることに対して全力で立ち向かう。


 しかし、夜、一日の終わりに鎧を脱ぎ、一人孤独に寝る直前「正気に戻」って、「ごめんなさい」「もう無理何もかも」と涙を流す。また明日、正気を無理矢理狂気にして生きていかなければならないから。


 まずいまずい、僕も短歌を作りたくなってしまう!!!


 ……気が向いたらここに追記していきましょう笑


 三十一文字に広がる宇宙は、お手軽に作ることができる。自分の感性を三十一文字で切り取ってみませんか?

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2016年8月号 特集=あたらしい短歌、ここにあります

定価本体1300円+税発売日2016年7月27日ISBN978-4-7917-0312-8■私が出会った人々*8 故旧哀傷・松田耕平 / 中村 稔■記憶の海辺――一つの同時代史*16 人生はされどうるわし あるいは『ファウスト』訳のこと / 池内 紀■詩 交差点 / 小林坩堝 やもりの卵の殻は白い。 / 清水あすか■耳目抄*338 この現実 / 竹西寛子■特別掲載 映画は〈難民流入〉をどうとらえるか 第六六回ベルリン映画祭に見るドイツ映画 / 瀬川裕司 特集*あたらしい短歌、ここにあります ■対談 ささやかな人生と不自由なことば / 穂村 弘 最果タヒ■短歌/イラスト 愛たいとれいん / 雪舟えま■新作5首 舟の尾  / 俵 万智 あんぐり五首 / 巻上公一 平成私事 / 戸川 純 ミヤネ屋を見る / 斉藤斎藤 解散主義 / 瀬戸夏子 蕩児 / 結崎 剛 共喰いする鳩 / 井上敏樹 書物物語 / 福永 信 胸ときめいて / 木下古栗 記憶を浚うとふと底にざらつく、日々の澱 / ミムラ 世田谷の善き友たち / 壇蜜 片目で語れ / DARTHREIDER a.k.a.Rei Wordup 花を枯らさないための暮らし / 澤部 渡 生きていないわたし / 雨宮まみ 双極卍解/わたしはくたばりたくない / ルネッサンス吉田■共作 あの声とあの恋 / 木下龍也+尾崎世界観■ある歳月の記憶 短歌と非短歌の歌合 詠むことの永遠と新しさについて / 岡井 隆 聞き手=東直子 歌文半世紀 幻の夢をうつゝに見る人は☆序章 / 須永朝彦 マルシェとしての『かばん』 遊びをせんとや / 井辻朱美 短歌の新しさ / 加藤治郎 インターネットと短歌 / 荻原裕幸■うたびとたちの現在地 共感は時空を超えて / 鳥居 聞き手=編集部 比較の詩型 そして比較できないもの / 吉川宏志 カラスウリの花と顕微鏡 / 永田 紅 〈それ以後〉の空 / 井上法子 またいつかはるかかなたですれちがうだれかの歌を僕が歌った / 枡野浩一 佐々木あらら そのオモチャ箱には念力家族が入っていた / 佐東みどり 僕が「君」のことを詠う理由 / 鈴掛 真 純粋病者のための韻律 / 梅﨑実奈■受肉する詩歌 □街のみる夢 『月に吠えらんねえ』の世界 / 清家雪子 聞き手=黒瀬珂瀾■三十一文字のポエティクス タブーのない短歌

www.seidosha.co.jp


追記:自作の短歌

意味もなく山手線をぐるりとする間にすうっと銀河を巡り

おつかれさまですにっこり(さようなら)それではお先失礼します

倦怠に沈む闇夜を滑る汽車次銀河駅二番線到着ご注意ください

ブーブブ、震えて呼ばれているぼくはふとそっと喉震わせてみる

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