Project Itoh と銘打たれた伊藤計劃著作映画化企画第二弾。本当は「虐殺器官」がこの時期に公開だったのだけれど、「虐殺器官」を作っていたアニメーション会社が倒産してしまって、公開できないという結果に。それで、もともと12月の公開だった「ハーモニー」が前倒し公開になったという算段。伊藤計劃作品の中では一番『ハーモニー』が好きなので、大トリを飾ってくれることが発表時にはうれしかったが、世の中にはどうしようもない事があるものです。ちなみに、「虐殺器官」は新たなアニメーション会社の担当が決まった模様。公開は来年になるそうだが、楽しみである。
さて、映画「ハーモニー」は原作『ハーモニー』とほとんど変わっていない(「屍者の帝国」ほどではない、程度の意味)ので、原作のあらすじを引用しようと思う。
21世紀後半、〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築き上げていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する”ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――それから13年。死ねなかった少女・霧彗トァンは、世界を襲う大混乱の陰にただひとり死んだはずの少女の影を見る――『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
PVに関しては以下の記事参照。
これは、前回の映画「屍者の帝国」を見たときにも感じたことだけれど、設定が盛りだくさんのSFは2時間の映画という枠に押し込むのはかなり難しいのだろうなと。『ハーモニー』は真綿で首を絞められるような世界を、「やさしさ」という狂気が支配している世界を表現しているからこそ、物語の進行も「やさしさ」をまとったゆったりとしたものになるのは致し方がないだろう。目を覆いたくなるような自殺のシーンなど多くあるが、すべて静かに進行する。ガツンとくる衝撃ではなく、ヒタヒタと静かに忍び寄り、ゾクゾクとさせるような、そんな衝撃。そんな物語進行は、見えない狂気に彩られた「ハーモニー」の世界と異様にマッチしていたのも事実だ。
合わない人はとことん合わない映画(題材)なんじゃないかな。説明は長い、映画のほとんどはモノローグ。この世界観を説明するには、どうしようもないことなんだけど。絶対に必要な要素だし。ドッカーン!バコーン!を映画に期待している人には向いてないです。何度も席から立ちあがって退出してたカップルもいたし。そもそも、この映画、カップルで見るものじゃありません(嫉妬ではない、断じて)。
映像化が難しかっただろうなあ、というのも感じたが、それでも、映像で伝える世界観の説明も多くあって、これが映像化の醍醐味だなあと。冒頭の砂漠と向日葵畑の対比(WatchMeを身体にインストールしていない文化圏としてある文化圏の対比)は多くの人が指摘している通りだけれど、僕がなるほど、と思ったのは、日本の都市の景観。極力直線を排した建物や道路、自動車。それを覆うボロノイ図のパターン。そして、ピンクという色調。(下図はボロノイ図の一例)
そこから想起されるのは、人間の臓器だ。WatchMeを身体にインストールしたことで、身体の機能(つまり臓器の機能)を外部化したことを上手く表していると思う。
映画全体に流れる不気味さ。それは「生命主義」が支配する社会の不気味さである。トァンが日本に来てからそれは観る人に与え続けているのだけれど、それの臨界点は、首つり自殺者の主観視点のところだろう。特殊なコンタクトレンズを装着することで(義務化されている)現実が拡張される。その拡張された現実には、事細かに注意(「しっかりよく噛んで食べましょう」など)や目に映る事物の補足情報、自身の健康状態が提供される。そして、それから取得できる映像は政府=生府に提供されていて、自殺の瞬間の映像をトァンが見るのだが(トァンは世界保健機構螺旋監察官であり生府の中枢に所属している)、その時の各超現実による注意喚起がいちいちズレているのである。
その男性は脚立に上り、ネクタイを電灯にかけ、首を吊るのであるが、WatchMeによる拡張現実の注意喚起は、自殺に関する注意が何一つ表示されない。脚立に関する注意、ネクタイに関する注意、動悸の激しさから落ち着いてくださいというアナウンス。それらはこれから行われようとしている自殺を防止するための注意喚起ではない。状況を見れば自殺しようとしていることは明らかであるのにもかかわらず。
『ハーモニー』のイメージをより不気味に視覚的に訴える形で表現できているんじゃないだろうか。映画化なんだから当たり前なのかもしれないけども。
御冷ミァハのカリスマもかなりのものだった。声をあてるとこんなになるとは。浮世離れしたミァハの感じをよく表現できていました。
伊藤計劃はパロディが大好き。そんなことは「屍者の帝国」の感想にも書いたけれど、それは『ハーモニー』にも健在。それも、作品にうまく作用しているように感じた。
ミァハに対するトァンの評「いつだって、確かなやり方を心得ていた。たったひとつの冴えたやり方を」というのは、ジェイムズ・ティプトリー・Jrの『たったひとつの冴えたやり方』の引用。ジェイムズ・ティプトリー・Jrの「たったひとつの冴えたやり方」は生き残るための「冴えたやり方」に対し、「ハーモニー」のそれは死ぬため。して、「ただの人間には興味ありません」という学生時代のミァハの言は皆さんご存知『涼宮ハルヒの憂鬱』の涼宮ハルヒの言葉から。セカイ系を彷彿とさせる『涼宮ハルヒの憂鬱』の有名な言葉を引用しつつ、「ハーモニー」ではセカイ系を否定する。どんな感じで否定しているかは是非原作or映画(できれば原作)を読んでいただきたいが、伊藤計劃のパロディがただの面白がりではなく、物語に直結する形で存在しているのがとても良い。映画でもそれは感じ取ることができた。
トァンのミァハに対する復讐ではなく、トァンのミァハに対する愛情を全面に押し出した映画版「ハーモニー」は原作よりも優しい。社会にはびこる「やさしさ」という同調圧力に殺されそうになっていたミァハは、たった一人の愛情という「やさしさ」に殺された。「ハーモニープログラム」による社会のユートピアの臨界点に達する前に、ミァハはトァンによって二人だけの(もしかしたら零下堂キアンも含めた三人だけの)ユートピアの臨界点に達したと、考えることが可能だろうか。
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