映画「屍者の帝国 THE EMPIRE OF CORPSES」感想

 怒りを溜め込むってのは、案外難しい。怒りは瞬間的なもので、何か自分を怒らせることがあったとき、その時だけはぶん殴ってやる、殺してやると思えるが、だんだんと冷静になっていってしまう。怒った瞬間の怒りのみが純粋な怒りで、そのあとの怒りは、わざと自分を怒らせているに過ぎないのではないか。怒ってしまった自分への見栄と、怒った相手に対するポーズ。そんなものは不純だ。怒りを維持するなんて、ただただ不毛だ。


 人間なんて、思っている以上に無責任なんだ。そんな単純なこと。


 こころにゆとりを。


 てなわけで、映画を2本、見てきました。一人で。待ち時間は新宿御苑を散歩し、読書。なんて文化的な日!!!


 まず、10月2日に公開されたばかり、映画「屍者の帝国 THE EMPIRE OF CORPSES」から。ちなみにもう一つは「心が叫びたがってるんだ。」。これについてもすぐに。


 以下、公式サイトより、Introduction引用。


’’死者蘇生技術’’が発達し、屍者を労働力として活用している19世紀末。ロンドンの医学生ジョン・H・ワトソンは、親友フライデーとの生前の約束どおり、自らの手で彼を違法に屍者化を試みる。その行為は、諜報機関「ウォルシンガム機関」の知るところとなるが、ワトソンはその技術と魂の再生への野心を見込まれてある任務を命じられる。
それは、100年前にヴィクター・フランケンシュタイン博士が遺し、まるで生者のように意思を持ち言葉を話す最初の屍者ザ・ワンを生み出す究極の技術が記されているという「ヴィクターの手記」の捜索。第一の手がかりは、アフガニスタン奥地。ロシア帝国軍の司祭にして天才的屍者技術者アレクセイ・カラマーゾフが突如新型の屍者とともにその地へ姿を消したという。彼が既に「手記」を入手し、新型の屍者による王国を築いているのだとしたら…?フライデーと共に海を渡るワトソン。
しかしそれは、壮大な旅のはじまりにすぎなかった。
イギリス、アフガニスタン、日本、アメリカ、そして最後に彼を待ちうける舞台は…?
魂の再生は可能なのか。死してなお、生き続ける技術とは。
「ヴィクターの手記」をめぐるグレートゲームが始まる!

 

 ついでに、WEB限定ファイナルPVも。

 さて、「Project Itoh」劇場アニメ化第一弾として公開された「屍者の帝国 THE EMPIRE OF CORPSES」。原作は買ってはあるものの、いまだ未読(すみません)。それでも、映画は映画としてオリジナルの展開をしているので、問題ないと思い、視聴した。


 この点に関して、伊藤計劃の跡を継ぎ、『屍者の帝国』を完成させた円城塔さんは、「映画版『屍者の帝国』に寄せて」というコメントの中で、こんなことを言っている。


物語の一生ということを考えるなら、一つのテキストを固定して、複製を繰り返すのは一つの段階であるにすぎない。物語は一冊の本が出版され、評判になり、増刷され、ほかの言語に翻訳されることで繁殖しているわけではないと思う。他の形態に姿を変え、冗長な部分を落とし、新たな要素を取り入れて変貌していく過程が、一生という言葉には必要なはずだ。(一部抜粋)


 とっても素敵な文章なので、全文がここで読めます。ぜひ。


 つまり、この映画「屍者の帝国」は、映画という媒体に最適化された「屍者の帝国」という物語なのだ。原作小説と多分に重なり合いながら(原作小説ですら、伊藤計劃の物語と円城塔の物語が重なり合っている)、まったく新しい「屍者の帝国」なのだろう。だから、「原作と全然違う」という批判は核心をついていない(原作まだ読めてないけど!!)。


 映画は映画として、楽しみましょう。こころにゆとりを。


 さて、この映画、とてもムツカシイ。物語世界に入り込むことが難しい。その要因の一つとしては、登場人物がほとんど超有名人であることであることか。


 まず主人公がワトソン。あの、ワトソン君である。そして、ヴィクター・フランケンシュタイン。さらに、カラマーゾフ。終盤にはトーマス・エジソンまで!それぞれが有名であるからこそ、もともと、固有のイメージがあって、そのイメージをこの映画用に自分の頭の中で整理するまでが大変。


 そして、これはSF作品にありがちなんだけれども、説明が多い。それに付随して、というか、その理由として、SF的ガジェットがある。聞きなじみのない言葉のオンパレード。そもそも、屍者とは。霊素って何?霊素と擬似霊素の違いは?ネクロウェア?これらは、「屍者の帝国」オリジナルの造語であるが、SFにそもそもなじみがないと理解に時間がかかるような言葉の数々。パソコンや、スマホにインストールってならわかるけど、死体にインストールってどゆこと?解析機関?たくさんの?が実際映画館内に飛び交っていたように思える。


 そうした疑問をあまり感じさせないような工夫は多く施されていたように思えるが、予備知識なしに見るとポカンとしてしまう人の方が多いんじゃないか。いびきかいて寝てるおっさんいたし。


 そして、一番難しくしているのは、扱う舞台が’’グレートゲーム’’である、ということではないか。’’グレートゲーム’’とは、


中央アジアの覇権をめぐる大英帝国とロシア帝国のつばぜり合いを、「グレートゲーム」という。これは、両国が直接抗争をさけ、スパイを中心とする情報戦を繰り広げたことを、チェスのゲームに例えた命名。カラマーゾフが屍者たちを連れて隠れ住んだアフガニスタンはグレート・ゲームの舞台となった重要な地域である。


劇場パンフレットより。実際にあった歴史的事実で、世界史を勉強してる人はなじみ深いかもしれないけれど、むずかしい。難しいですよ、監督さん。本ならば、読み返す、調べる、など、周辺を固めることも可能だが、映画だとそうもいかない。わかっていてもわからなくても、物語は進んでいく。でも、ワトソンとフライデーの関係に焦点化することで、映画自体の筋はとてもわかりやすいものになっていた。周辺を知っていると、もっと面白いだろう。


 すべてはパロディなのである。現実と虚構を超えて有名人が登場人物として錯綜する世界。人間の死体が現在でいう機械のポジションに位置している世界。そんな世界で実際にあったグレートゲームを扱ったIFストーリーである。そこら辺を楽しめると、この映画、ないしは伊藤計劃を十全に楽しめると思う。


 21グラムであるといわれる魂。その在処はいづこ。魂とは何か。魂を死体にインストールすることはできるのか。技術者がなき友人のために探求し続けたこれらの問い。私には魂が、悲しみや苦しさを感じ取る心がない、と嘯く女性に「そういうところが好きだった」とワトソンは声をかける。そんな彼は、魂の在処を、見つけることができたのか。


 多分、見つかってはいないだろう。それでも、人が必要とする物語を否定していた技術者は、魂の紡ぐ物語を目の当たりにして、変わったはずだ。そして、フライデーではない新たな相棒と共に、魂を求めて、ロンドン中を駆け回っているだろう。

 「心が叫びたがってるんだ。」の感想のほうでも、すこし「屍者の帝国」のことも触れると思います。

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