小さい頃、自分の視界からしか周囲を(世界を)見ることができなくて恐かった。自分の視界からしか認識する術が無かったことに恐怖していた。その恐怖を意味もわからず母親に泣きじゃくりながら訴えていた覚えがある。
単なるゲームのしすぎだったのかもしれない。ゲームはいつだって僕が操作する主人公(マリオだったり、ポケモントレーナーだったり)を常に後ろから追いかける視点を提供していたから。操作しているキャラクターを俯瞰することが可能だったから。ゲームを離れてコントローラーを置いたとき、自分を操作しているのが自分であることは間違いないのに、自分を俯瞰できないのはどういうことなのだ。この年になって改めて分析すると、こんなものだったのかもしれない。
母親に泣きじゃくりながら恐怖を訴えていた時の記憶は、温かい母親の体温や背中にそっと回してくれた腕の感触ではない。和室で女性が小さな子供を優しくなだめているその様子を、上から監視カメラの映像のような、そんな実際に見ることの叶わない視点からの映像が、僕の記憶には残っている。
僕は、なにかひとつの物事に没頭してしまいがちだった。それこそ、虚構と現実の境界が曖昧になるくらいに。要するに、怖がりだった。
僕の見えないところには何かいる。そんな意識が中2ぐらいまで苛む。他の友達とと比べて、かなり長い間怖がりだったと思う。何も見えない暗闇が怖い。ベッドの下の空間が怖い。何より、自分では自然に確認できない背後が怖い。自分が知覚できない部分が怖かったのだと思う。だから布団は頭まで覆っていた。
今でもたまに、その恐怖を思い出すことはある。でも、知識を付けたことで怖いと思う頻度は激減している。これを成長とⅣでいいのかは、わからないけれど、ごくたまに感じる得体の知れないものへの恐怖は、どこか懐かしい。
恐怖は克服することができる。忘れることができる。でも、気を付けなければ。僕達の背後に、魑魅魍魎が蠢いていない保証はどこにもないのだから。
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