ヨハネスブルグに住む戦災孤児のスティーブとシェリルは、見捨てられた耐久試験場で何年も落下を続ける日本製のホビーロボット・DX9の一体を捕獲しようとするが――泥沼の内戦が続くアフリカの果てで、生き延びる道を模索する少年少女の行く末を描いた表題作、9・11テロの悪夢が甦る「ロワーサイドの幽霊たち」、アフガニスタンを放浪する日本人が”密室殺人”の謎を追う「ジャララバードの兵士たち」など、国境を超えて普及した日本製の玩具人形を媒介に人間の業と本質に迫り、国家・民族・宗教・戦争・言語の意味を問い直す連作5篇。才気煥発の新鋭作家による第2短篇集。
誠と璃乃と出会ったのは五歳のときだ。以来二人はいつでも一緒にいた。東京の北のさびれた団地に、学年あたり十五人しかいない学校。だから子供らの結束は強い。二人は同じクラスで学び、同じ遊びをして、同じ言葉を喋り、同じものを見てきた。まるで童話に出てくる二羽の兎のように。あるいは、檻のなかの実験用の鼠のように。
――「北東京の子供たち」p217 より
今生きている現状に不安を感じ絶望することと、同時に、”なんとかなるさ”などと楽観することは、果たして矛盾することなのだろうか。そもそもこの問題提起自体が問題の体を成していないかもしれないが、僕のこの問いに対する答えは「NO」である。真綿で首を絞められているような、と未来の世界を御冷ミァハは形容したけれど、それは未来のことでもあり、そして間違いなく今現在のことでもある。そうしたじんわりとした息苦しさを描く作品ももちろん好きなのだけれど、その息苦しさの向こうに優しさと楽観を描いている(と僕は思っている)宮内悠介がとても好きだ。
『ヨハネスブルグの天使たち』で描かれる連作五篇の舞台は、どれも苛烈な環境だ(「ロワーサイドの幽霊たち」と「北東京の子供たち」は苛烈さが外部ではなく内部に存在している)。表題作で登場する牧師、ムプムルワナの言「……教訓などない。あるのは、ただ現実のみだ」(p34「ヨハネスブルグの天使たち」)に集約されているような気がする。拠り所となる過去もなく、また、希望を託すべき未来もない。そんな世界。全ては、自分ら人間の作り出した「業」であり、まさしく”自業自得”である。
しかし、そんな世界は反転する可能性が存在することを示唆する。「DX9」という人工”歌姫”ロボットの存在だ。この、ともすれば何物にも染まっていない文字通りの無垢な存在によって、残酷な世界は反転する可能性を示し始める。「ヨハネスブルグ~」では男女を見守り、「ロワーサイド~」では二つのツインタワーの間に”希望”を見出す。「ジャララバード~」では新たな生活形態への夢想が託され、「ハドラマウト~」では愛を示し、「北東京~」では集合的無意識のささやかな抵抗である青い四葉のクローバーが咲き乱れる。
先に引用したムプムルワナの言も実は間違い(嘘)であり、元ネタのエピソードは実はハッピーエンドで終わることが告げられる。『ヨハネスブルグの天使たち』の登場人物たちはこんなやつらばっかりである。露悪的に振る舞うことでしか身を守ることのできない人間。しかし、ふとした瞬間に露わにしている悪に隠されているやさしさが垣間見える。落下する「DX9」を救出しようとしたときに起こったあの歓声。ザカリーとルイの逃避行。アキトの投身。そして誠と瑠乃。
もちろん、「DX9」は人間の根の善さを引き出す単なる装置ではない。無垢であるがゆえに我々をそのまま映し出す鏡なのだろう。「DX9」の氾濫はどうしようもなく人間の業が生み出した結果であるし、「DX9」の残虐な軍事利用、9・11の再現などもそれとイコールである。しかし、人間はそういった面だけでなく、常に多義的なのだという当たり前の事実を「DX9」は示しているようでもある。ヒトの残虐性と優しさは、矛盾するものではなく、両立している。そんな人間像をそのまま鏡のように「DX9」はわれわれヒトに提示しているのだ。
そんなやさしさはきらめきであり、一瞬のことである。きらめいた後、また閉塞の時代が続いていくことは間違いがない。しかし、そのきらめきがあるからこそ、僕たちはきっと生きていける。少なくとも、僕はそうだ。終わりのない日常に辟易しつつも生きているのは、灰色の世界にふと、挿入される色鮮やかな情景があるからだ。又吉直樹の『劇場』でも、空手の型をしながら突き進む子供とそれを見守る母親の様子が、本当に美しく綺麗に描写されていて、主人公も「こんな風景を見るために生きているのかもしれない」と述懐している(このシーンが『劇場』の中で一番心に残りました)。つまり、そういうことなのだ。僕の場合は、本を読んでそんな綺麗な描写に行き着いた時や、映画を見終わった時などに感じ、それでなんとかやっていけてる。たまに高い自意識と劣等感に苛まれることはあるけれど(笑)
「現実があるのみだ」という厳しい言葉と「メイ・アイ・ヘルプ・ユー」という優しい言葉。その両立を包含を、絶妙なバランスで描き切る本作。閉塞した時代にも優しさはあるのだ、とそれこそ優しく語りかけているような気がする。それは仮初めなのかもしれないけれど、厳しさと優しさは表裏一体なのだから。
そのときビンツは見たのだった。ビルとビルのあいだにあるのは、空白ではない。過去ではない。貿易センタービルの佇まいは変わらない。しかし、そのあいだに見える街は、時代とともに変化していく。言うなれば、そこにあるのは未来なのだ。
あと七秒。
風を切る音がする。
――「ロワーサイドの幽霊たち」p102より
補足
”場所”が本作では重要である気がする。「北東京~」の舞台に団地が選ばれた意味。スティーブの「人の信仰を決めるのは場所であり、座標である」ということば。寄る辺のない人間たちの帰属するその”場所”。もっと勉強してもう少し気の利いたことを言えたらな、と思う。
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