ルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』(矢川澄子訳)感想 子どもにしか許されていない特権

 そういえば、僕はファンタジーが好きだった。


 以下、惹句と引用。


ある昼下がりのこと、チョッキを着た白ウサギを追いかけて大きな穴にとびこむとそこには……。アリスがたどる奇妙で不思議な冒険の物語は、作者キャロルが幼い三姉妹と出かけたピクニックで、次女アリス・リデルにせがまれて即興的に作ったお話でした。1865年にイギリスで刊行されて以来、世界中で親しまれている傑作ファンタジーを金子國義のカラー挿画でお届けするオリジナル版。


 アリスはそのとき土手の上で、姉さんのそばにすわっていたけれど、何にもすることはないし、たいくつでたまらなくなってきてね。姉さんの読んでる本を一、二度のぞいてみたけれど、挿絵もなければせりふもでてこない。「挿絵もせりふもない本なんて、どこがいいんだろう」と思ってさ。


 僕の小学校時代は、見事にファンタジーを繰り返し読んでいた。


 『ハリー・ポッター』シリーズ(J・K・ローリング)に始まり、『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ)、『ナルニア国物語』シリーズ(C・S・ルイス)、『ネシャン・サーガ』(ラルフ・イーザウ)、『バーティミアス』三部作(ジョナサン・ストラウド)、『ドラゴンライダー』シリーズ(クリストファー・パオリーニ)、『ローワン』シリーズ(エミリー・ロッダ)、『デルトラ・クエスト』シリーズ(エミリー・ロッダ)、『ダレン・シャン』シリーズ(ダレン・シャン)、『マーリン』シリーズ(T・A・バロン)、『ドラゴンランス』シリーズ(マーガレット・ワイス、トレイシー・ヒックマン他)などなど。


 日本の作品で言えば『ブレイブストーリー』(宮部みゆき)、『精霊の守り人』(上島菜穂子)など、海外作品に比べれば異様に少ない(もう一冊、自分の中で印象的な日本人作のファンタジーがあるのだが、思い出せない)けれど、日本人作家の入り口は「青い鳥文庫」だったので、しょうがないかもしれない。


 こういったものの中で、僕の心をつかんで離さなかったと思われるものは、”日常の裏側”への描写である。


 「9と4分の3番線」「はてしない物語」「古い屋敷の衣裳箪笥」「サーカス」「幽霊ビル」、これらはこちら側(表側)とあちら側(裏側)をつなぐ装置である。なんとワクワクすることだろうか。僕たちの住んでいる場所をちょっと外れた場所にこれらはあるのだから。


 そして、ファンタジー小説の先駆と言われている(ウィキペディア参照、要検証)この『不思議の国のアリス』も例外ではない。それは、「ウサギ穴」である。


 「ウサギ穴」を潜り抜けると、そこは動物が言葉を話し、体が大きくなったり小さくなったりする飲み物があったりキノコが生えていたり、そりゃあもう「不思議」な国だった。


 まだ幼い子供である主人公アリスは目に映るものすべてに対してツッコミをいれていかねば気が済まない。そして、子供特有の気の強さで、「不思議の国」を駆け出していく。


 アリスは「不思議の国」で一度もコミュニケーションが成立していない。ほぼすべてが無意味な言葉の応酬だ。向こう側の住人が物語り始めると、アリスは「どうしてどうして?」と、好奇心を抑えきれない。向こう側の住人たちはそれにまともに取り合わない。アリスはそれに怒る。そういうのの繰り返し。


 でも、それでいいのだと思う。アリスは内心ずっと「不思議の国」の住人たちを馬鹿にしているが、それでいいのだ。高飛車で上から目線で。それが幼さの特権だから。ルイス・キャロルはそこに、女の子の特権も合わせて描いているように思える。


 「不思議の国」から現実へと戻る時、アリスは

「あんたたちなんて、ただのトランプじゃない!」

――172頁より

と、現実を突きつけることによって、それを完了するわけで、現実世界では「不思議の国」の出来事は「夢」として処理されてしまうわけだが、幼い子どもであるアリスにとって、起きた後お姉さんに話して聞かせた「不思議の国」の出来事は、まるで自分が本当に経験したことのように話したはずだ。


 「不思議の国」の出来事はアリスにとって紛れもない「現実」であるに違いない。そして、自分が「不思議の国」にいてはいけない存在であることも同時に感づいていたはずだ。必ず戻らなければならない場所があることを、子どもは知っている。


 ファンタジーの多くが子どもを主人公に据えているのは、子どもという存在自体がそれだけでは安定しない存在であることが関係していると思う。


 だから、こちら側とあちら側を行き来できると思うのだ。子どもでなければ「ウサギ穴」を、「9と4分の3番線」を、「古い屋敷の衣裳箪笥」を、通り抜けることはできない。そういう中間的な場所は自分が安定している大人はそもそも見つける資格もない。


 そして、必ずこちら側に戻ってこなければならない。子どもたちはこちら側の大人に庇護されており、そここそが帰る場所だから。


 ゆめとうつつ、異世界と現実を混濁しながら、かならずうつつ、現実に帰る。それを繰り返すことで、自分をこのクソつまらない現実世界に身を立てる。その時にはもう立派な大人になっている。


 だから、”日常の裏側”を本当に体験することができるのは幼い子どもだけだと僕は思うのだ。子どもだけに許された特権なのだ。これが異世界、日常の裏側、なんて認識することのできる人間はそもそも、そういうところからお呼びはかからない。


 頭の中に自分だけの友達を住まわせ、おしゃべりに興じ、時間を操ることのできる幼さを持つ”子ども”という存在だけが、ファンタジーを経験する資格を持つ。


 ぼくは、最近の”異世界物”と呼ばれるものが気に食わない。


 無垢も純真も残酷も何処かに置いてきてしまった大の大人が、死んだくらいで、引きこもっていたからって、異世界に飛ぶことができるはずがない。異世界はもっと崇高なものだ。大人のけがれた手で汚してはいけない。


 僕たちはもう、ファンタジーを読んで、昔のどこかへいけてしまえるような(そして今はもうどこへも行けないと知っている)、ちがうところへ連れていかれるような気がしてのぞけなかったような(そして今はどこにも連れていかれないことを知っている)気持ちを想起することしかできない。近所の神社の裏に、夜の学校に、田んぼのあぜ道に、図書館の本に、いつも”日常の裏側”を”感じて”いた日々を想起することしか許されない。


 大人である自分は”日常の裏側”をもう、感知することは許されないけれど、”日常の裏側”は子どもが存在する限り、存在すると信じたい。だから、子どもたちに”日常の裏側”を感じさせる導き手となるのが正しい大人の姿だと思う。


 ルイス・キャロルもこう言っているでしょ?

アリス!このたわいない話をうけとり
その手でそっとしまっておいてくれ
思い出の神秘な絆のなかに
子供の日の夢が綯いまぜになったあたりに
巡礼たちが遠い国で摘んできた
とうに萎れてしまった花冠のように

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