カズオ・イシグロ作『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)感想

 思い出とは、常に美化されるものである。現在、僕の暮らしている寮では「寮祭」なる祭が催されているわけだが、まあ、この祭がまったくもって意味不明で、他人に説明のしようがない祭だ。過度のストレスを抱えること必至であり、しかし、その大変さは経験しないとまったく伝わらない。ちなみに、僕は一年生のころ6kg体重が減り、二年生のころは牛丼一口でおなか一杯になるほど胃が縮んでいた。そんな僕が四年生として、下の代の胃を縮めるほどストレスをかけてしまっているのは、やはり、そんな経験の中でもよかったこと、楽しかったことが強調され美化され思い出となっているからではなかろうか。


 老害と言われる所以である。


 このような構図が気持ち悪いとは思うが、そう簡単に変えられるものではない。ここら辺がほかの人たちに伝わらないおおきな部分だが、それは、寮という環境がかなり閉鎖的であることが理由である。その環境の当たり前が一般社会では伝わらないのは、ごく自然なことだ。


 さて、今回はカズオ・イシグロ作『わたしを離さないで』である。以下あらすじ引用。


 優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく――全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の新たなる代表作。


 書き出しはこちら。


 わたしの名前はキャシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。ずいぶん長く、と思われるでしょう。確かに。でも、あと八カ月、今年の終わりまではつづけてほしいと言われていて、そうすると、ほぼ十二年きっかり働くことになります。ほんとうに長く勤めさせてもらったものです。


 作者のカズオ・イシグロさんは柴田元幸さんの解説によると、日本生まれのイギリス人作家。完全な日本名なのに、翻訳家が訳しているということに、初めて見たときは違和感を強く感じたものである。


 『わたしを離さないで』は主人公のキャシー・Hの回想という形がとられている。でも、途中「これを読んでいるということは」というような文言があったため、文章にしたためているの可能性も高い。何はともあれ、すべてはこのキャシーの主観であることには留意したほうがいいかもしれない。


 冒頭でも挙げた通り、思い出は美化されるものだ。ヘールシャムでの出来事、ヘールシャム卒業後のコテージの出来事、そして介護人として働いているときの出来事。これらのことがキャシーの回想として語られるが、その語り口から受けた印象は清潔すぎる、というものだった。まるで殺菌消毒が行き届いた完全無菌の病室の中の出来事であるように。


 彼ら彼女らは避けようがない残酷な運命が待ち受けているのだ。それは、、、と続けようと思ったが、興が削がれると判断し、ネタバレはしない。この残酷な運命は割と序盤に説明されるが、知らないほうが楽しめることは確実だろう(これも解説にて柴田さんが述べられている)。


 自分自身の境遇に対する認識と、その境遇に対する大衆の認識の間にずれがあるとき、大衆の認識に抗うのは非常に骨が折れる。大衆は無知でありかつそうであるからこそ強大だからだ。冒頭の寮での暮らしに対する寮に暮らす者とそれ以外の者の認識のずれ、最近だと、佐野氏が作成したオリンピックのロゴをめぐるデザイナーと一般人の認識のずれもそうだろうか。


 そんなずれを鋭く切り出していると感じる。社会的弱者であればあるほど、大衆との認識のずれは大きくなるものだ。本書では題名にもなっている「わたしを離さないで」の曲の解釈でよく表れている。


 キャシーにとって「わたしを離さないで」とは、赤ちゃんをようやく授かった母親の気持ちであり、ルースやトミーとの仲直りの印であり、同時にルースとの仲違いのきっかけであった。つまり、誰もが持っているであろう自身の人生をかたどる大切な曲のひとつなのである。


 しかし、大衆のひとりであったマダムは、枕を赤ちゃんに例えながら体を揺らし、空想にふけっていたキャシーを見て、涙を流す。しかし、その理由はキャシーの空想を想像したからではない。


 「泣いていたのは、まったく別の理由からです。あの日、あなたが踊っているのを見たとき、わたしには別のものが見えたのですよ。新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願している。わたしはそれを見たのです。」


 キャシーがマダムに自分の空想を打ち明けた時、一縷の望みをかけていたのだと思う。しかし、マダムはこう答えた。結局、マダムたちのようにキャシーたちを「人道的支援」してきた人間でさえ、大衆の認識から逃れることができない。憐憫の情で捉えることしかできない。そんな事実を突きつけられたからこそ、一緒に話を聞いていたトミーはその後、癇癪を起こし、暴れまわったのではないか。


 語り手キャシーはいつも冷静だ。自分の運命を早いうちから受け入れているように見える。そんな姿は気高く、しかし、僕たち読者はその凛々しい姿に胸を締め付けられる。


 幼いころ持っていた、だれとも隔てなく接することのできる心。屈託のない心。そして、成長するにつれてどこかに置いてきてしまった心。それを取り戻すために、僕たちはノーフォークへ旅立たないといけないのかもしれない。


 



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