映画「聲の形」感想 蓋した過去を、聞くということ

  日本の映画が今年は豊作ですね。


 あの、京都アニメーションが「聲の形」を映画化ってんで、ちょっと気乗りしないながら、僕はヲタクなので見てきました。


 以下、劇場版PVになります。

 「ちょっと気乗りしない」とさっき書いたのだけれど、僕はこういう話を避けてきたからで。いじめ、障碍者、学校空間。本当に苦手です。理由は僕の過去語りが必要になるので書きませんけれども。


 そして、やっぱりつらかった。「聲の形」の物語の引力に、「聲の形」のブラックホールに逆らうことができませんでした。誰かに感情移入していた、とか、そういうのじゃない。覚えのある経験で蓋のした出来事が詰まっていて、胸が苦しかった。


 映画「聲の形」公開記念特番 ~映画「聲の形」ができるまで~ ロングバージョン

 

 上に張り付けた動画で、耳の聞こえない女の子、西宮硝子役の早見沙織さんと監督の山田尚子さんがこんなことを言っている。

自分の封印してきた思い出箱みたいなものを、こじ開けられるようなところもいっぱいあると思いますけれども……

――28:43頃 「西宮硝子役 早見沙織 舞台挨拶」より

ずうっと隠し持ってる失敗だったりとか、人に言えない恥ずかしかったとか傷ついたりとか、傷つけちゃったりとか、絶対大なり小なりみなさん持ってると思うので、そういう思いを抱えた方が、なんかちょっとでも自分を許せたりとか、許せないと思ってた人をちょっと見方変えてみたりとか、なんかそういう少しのきっかけになったらいいなあ、と思っています。

――32:32頃 「監督 山田尚子 インタビュー」より


 まさしく、これらの言葉通りに「封印してきた思い出箱」を「こじ開けられ」たわけで、ほんとに苦しかったです。見た日はなにもやる気が起きませんでした。


 静謐で淡く綺麗な世界。それは映像の見せ方で成されていて、それは本来「やさしさ」を表現するものであると思うのだけれど、もちろん、映画の中で「やさしさ」を象徴していたものであったことを認めつつ、それでも、”だからこそ”つらさ、苦しさが倍増したような気がします。


 なぜって、思い出は淡く想起されるものだから。封印していたその出来事だけはくっきりしていて、それが起きた因果の関係とか、周囲の様子とか、そういったものはおぼろげで、つかみどころのないものだから。


 この映画は起伏がなさすぎる、という批判を少し聞きますが、その通り、映画自体には起伏はない。むしろ、意図的に極力起伏を起こさないようにしているように思えます。それは、主人公の石田将也を通じて、視聴者ひとりひとりの「思い出」を「思い出させる」ためであるからではないでしょうか。僕たちは、将也の「今」の物語を見て、自分自身の「過去」を思わずにはいられません。映画の映像がまるで、僕の思い出みたいだ。


 だから、映画自体が起伏に富む必要はない。僕たちの内側を暴れさせる(思い出を利用して)ことが目的なのです。映画まで起伏に富んでいたら、自分自身と将也とを同一化させて僕たちの内側を暴れさせることが果たされなくなってしまうと思います。


 そういった意味で、この作品は傑作だと言えるでしょう。でも、もう見たくありません。チクチクと痛い。


 そんなわけで、落ち着いて映画を見ていられなかった僕ですが、一日置いて考えてみた時に、思ったことは、「コミュニケーションの不可能性/可能性」と「過去の清算」です。


 いじめや障碍者といった要素は、要素であって、中心ではない。「いじめはしてはいけません」「障碍者に優しくしましょう」といったような道徳的な、ともすると健常者のエゴ丸出しの標語が主題ではないでしょう。


 聴覚障碍を援用し、僕らのコミュニケーションの不可能性と可能性の両面を描いていると思われます。


 硝子との出会いにより発する言葉でのコミュニケーションができない場面に遭遇した時、普段できていたはずの友達とのコミュニケーションが上手くいかなくなっていく。将也はそうして孤立し、精神的に聴覚障碍を患っていくわけですが、全編を通してずっと言葉によるコミュニケーション不全を示しているでしょう。硝子の告白の場面、将也の橋での友人たちに対する暴言の場面が克明にそのことを表しています。


 しかし、僕たちのコミュニケーションの手段は言葉だけではない。作中で示される手話はもちろんですが、登場人物たちの表情は非常に豊かです。言葉を介さなくても伝わる思いがある。そんな意味で可能性を同時に示していると言えるのではないでしょうか。


 そして、「過去の清算」。だれしも、清算したい過去を持ち、落とし前をつけたい。この映画では将也にフォーカスが当てられ、将也の清算が主たる視点だけれど、登場人物のクラスメートたち、全員が清算したい過去を持っている。そして、それぞれの仕方で清算していくかれらを見て安堵するのです。清算したい過去の中心にいた硝子もまた然り。


 将也が最後、学校の雑音を、声を、聞くために塞いでいた手が放された時、顔のバッテンがすべてはがれた時、ずっと映像に描かれていた世界の「やさしさ」に将也は安堵し笑い涙するのです。


 だれしも、どうにかして過去を清算しています。それはただ蓋をするだけのことかもしれない。でも、因縁のあった彼/彼女と久しぶりに会ってみて、お話ができれば、もうそれは、過去が清算できているってことでしょう。


 僕たちの見たくない過去をカッと見ろ、と強要してくるこの映画はかなり残酷なものであるともいえます。しかし、その過去は、間違いなく僕たちを形作る一つの(もしかしたら大きな)要素です。その出来事の「聲の形」を辛いでも今一度思い出す。私のルーツのその「聲」に耳を傾けることで、ほんの小さな些細な一歩を踏みだせるようになるのかもしれません。

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