「週刊朝日別冊 小説トリッパ― 二〇一六年夏季号」には佐々木敦と東浩紀が主宰する批評再生塾の第1期総代と次席の批評が掲載されている。
総代の吉田雅史は日本語ラップを用いて(「漏出するリアル」)、次席の川喜田陽は漫画を用いて(「擬日常論」)、昭和90年代と昭和の終わりを論じた。
「漏出するリアル」の方は、日本語ラップが自分にとって門外漢過ぎて「そ、そーなのかー」と読んだだけであったが、「擬日常論」の方はかなり面白く読めた。そこで取り上げられている漫画『花と奥たん』と『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』に興味が湧いたので、後者を買ってきました。
以下、あらすじです。
大きなUFOが浮かぶ世界は今日も廻る。
二人の少女のデストピア青春日常譜。
3年前の8月31日。突如、『侵略者』の巨大な『母艦』が東京へ舞い降り、この世界は終わりを迎えるかにみえた―― その後、絶望は日常へと溶け込んでゆき、大きな円盤が空に浮かぶ世界は変わらず廻り続ける。小山門出、中川凰蘭。ふたりの少女は、終わらなかった世界で、今日も思春期を過ごす!
僕はここで「擬日常論」について言及する気はさらさらない。突っ込みどころは多々あるように感じたけれども、ここではただ、自分の所感を記録しておこうと思う。
現在第4集までが刊行済み。まだ完結はしていない。なので、現時点(2016/7/19)での感想投下です。
この漫画、非常に気持ち悪い。
なぜって、現代社会の違和を上手に切り取りすぎているからだ。
8.31と呼ばれているUFO襲来は、3.11を意識している。作中の「A線」なる物質は放射能のことだろう。そして、UFOが襲来して3年。3.11から5年の現代社会と読者は作中の事象すべてが置換できることに、置き換えができすぎることに気付く。
テレビで御託を並べる有識者、こちらが真実であると声高に主張するネットのまとめサイト、これらに過剰に反応してコメントを連ねる匿名希望者。それらの不毛な議論を横目で見つつ、主人公の門出が開くリンクは「この画像見て吹いたら寝ろ」(第1集)である。
「2人の少女のデストピア青春譚」と紹介されるこの漫画は、我々が生きる現代社会を忠実にトレースし、戯画化することで、現代社会をも「デストピア」である、と言い切っているようでもある。
未来などとうにない。だから、「今」に執着する。ただ、目の前にある「今」だけに。
現代は閉塞している。そう、まるで頭上にとてつもなくでかいUFOが常駐しているかのようだ。『文藝 2016年秋季号』の特別企画「十年後のこと」では、12人の作家が12個の十年後の世界を見せてくれているが、明るい未来を見せてくれている作品はほんの一つや二つ。ほとんどは絶望的な未来か、あなたとわたし、もしくはわたしのみというごく狭い世界の未来だ。
ここから先はわたしのオリジナルだ。わたしは羊水でふやけたふにゃふにゃの頭に、出産の疲労でやつれた頬をよせてささやくだろう。その声はどこか醒めている。ねえ、教えて。無希望の社会に生まれるって、どんな気持ちがするの。それって、どういう気分なの、と。
――早助よう子「ポイントカード」より
ぼくはもう、未来は明るいというビジョンは持つことができない。真綿で首を締めるように絶望と閉塞がまとわりつく。それがもう「普通」の段階まで来てしまっている。
さて、「擬日常論」で川喜田陽も指摘している通り、「ドラえもん」を模した「イソベやん」という漫画が各集の冒頭と末尾に付されており、「イソベやん」と本編は微妙にリンクしている。そして、第4集にして、「イソベやん」のなかで8月31日を迎える。つまり、夏休みの終わりである。
本編にて、夏休みのつまりは、日常の、おんたんと門出の関係の、そして人類の終わりはどのように描かれていくのだろうか。第3集の末尾で明かされた「人類終了まであと半年」。作中時間からいうと、それは夏休みの終わり、8月31日と重なる。浅野いにおの描くデストピアはどのように終わるのか、もしくは終わらないのか。
もちろん、僕たちの生きる世界は終わらない。閉塞と絶望と、それらに鈍感になりながら生きていくしかないのだ。
いま、地球がくそやばい。
11月20日追記
第五集発売したので。
言うなれば、嵐の前の静けさ。全編を覆う不穏な空気の中で、門出の「私、今日は帰りたくないの」という女のセリフと、おんたんのバッティングセンターでのキスシーンがとても美しい。
水蒸気(?)を上げる「絶望」=巨大UFOはもう限界らしく、夏休みの終わりももう目前。刹那の美しさを切り取ったこの作品は、次に何を切り取るのか。
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