おかえりなさい、辻村深月。
瀬戸内海に浮かぶ島、冴島。朱里、衣花。源樹、新の四人の島は島の唯一の同級生。フェリーで本土の高校に通う彼らは卒業と同時に島を出る。ある日、四人は冴島に「幻の脚本」を探しにきたという見知らぬ青年に声をかけられる。淡い恋と友情、大人たちの覚悟。旅立ちの日はもうすぐ。別れるときは笑顔でいよう。
本土のフェリー乗り場はいつも、目が痛いほどの銀色だ。
夏はなおさら。
午後四時になっても翳りを見せない太陽が、足下のコンクリートを灼き、その上に、無数の銀色の粒がきらきらと輝いて見える。海に向けて突き出した桟橋の脇にある短い庇の待合所も、下に影ができるのは四時半を過ぎてからだ。それまでは高すぎる日差しのせいで、屋根の影は海面へ逃げてしまう。
惹句と書き出しでした。
冒頭におかえり、と述べたのは、僕が辻村さんと初めて出会った作品『冷たい校舎の時は止まる』の感覚がこの『島はぼくらと』に息づいていたからだ。
前にも書いた気がするが、辻村さんの作風は確実に変わった。誰に向けて本を書くか、の意識が変わったのだと思う。
そこら中で言われていることだが、地方の閉塞感、20代の女性の微妙な心理を描くのがうまいされている辻村深月。しかし、そのルーツはとびっきりの青春小説なのだ。ぼくは『冷たい校舎の時は止まる』を読んだ時の衝撃を忘れることができない。
その、とびっきりの青春小説を書いてくださった。大学生協で「直木賞受賞後第一作!」と銘打たれていた時は金欠学生でしたので、単行本を購入することができませんでしたことをここに陳謝いたします。
辻村さんの心理描写は押しつけがましくない。と、僕は思う。だから、辻村さんの描く友情とか恋愛は大好きだ。胸がほっこりと、そして段々と熱くなっていくから。
巷には押しつけがましい心理描写に溢れてる。いちいちそこまで言葉にしなくてもいいでしょ、と思ってしまうぐらい。「好きだ」の「愛してる」だの、安易に使いすぎなのではないでしょうか。base ball bearも曲「愛してる」の中で、
愛してる、はず
その言葉を口にするたびに愛が逃げていく気がする
愛は形のないものだから
と歌われているのは、1つの真理ではないか。正面切って「好きだ」「愛してる」と言ってそれがさも当然のように受け入れられ、きゃっきゃうふふする小説群は、私は嫌いです。
そんな言葉はなくとも、多分大丈夫だ。辻村さんの描く恋愛、友情は同じ次元で書かれる。人間関係の最良の状態が友情と、恋愛と言うんだよ、というような優しい語りかけを感じる。
私と「兄弟」になろうよ、と言われたのは、その時だった。
懸命に、それが自分にできる精一杯の策なのだとばかりに、あの時、顔を真っ赤にして、泣きながら、源樹は言われた。
島の「兄弟」の契りは、男同士が結ぶものなのに。しかも、元は島の人間じゃない自分に。
――p181より
「そう?」
衣花がこっちを見ないで言う。横顔にふと目をやって、そこで、新は小さく息を呑み込んだ。霧の中で横髪を押さえた衣花の鼻梁も、目の形も、髪を留めたピンの一本さえ、びっくりするほど輝いて見えたからだ。
衣花はその顔のまま、まるで一枚の絵か、石像のように、時を止めていた。咄嗟に言葉をかけられなくなる。衣花は、静かに、笑っていた。
――p252より
発見される新たな魅力。これがすぐに告白する、とかに発展しないからこそいいのだ。その宙ぶらりんな感覚が心地いい。
そして、このような島で暮らす幼馴染4人の話に終始しないところが、解説で瀧井朝世さんが「これは、とっても辻村深月だ。でも、今までの辻村深月じゃない」と書いている所以だろう。
直木賞受賞作『鍵のない夢を見る』のように、田舎の閉塞感を描くことは一つのテーマであったように思う。しかし、本作の離島、冴島はIターン受け入れを積極的に行うなど、一見開放的だ。
そう、田舎を肯定的に描いている。なんだけれども、田舎の(地方の)嫌な感じもしっかりと描かれていて。
高校生の青春群像劇で満足することなく、大筋はそれだけれども、大人の軋轢や、親子など家族の問題、町おこしの受難など、子どもの世界に引きこもることなく、むしろ自然と接続されている形で物語が進行していく。
だから「今までの辻村深月じゃない」のだ。確実にさらに上の次元にいる。でも、懐かしさをまとって、帰って来てくれた。そのことがティーンだった時、辻村深月に出会った僕にとってとっても嬉しい。
僕は辻村深月の青春小説が大好きだ。辻村深月の原点、つまり生まれ故郷でぼくは辻村深月のを力強く送り出す。「いってらっしゃい」。「おかえりなさい」と言える場所で。
辻村作品について、他にも感想を書いたもの、あります。合わせてどうぞ。
0コメント