麻雀、というボードゲームを御存じであろうか。
麻雀という言葉からはなにか饐えたにおいがする。タバコとアルコールと下品な冗談のにおい。そこに往々にして金が絡むからさらにたちが悪く、さっきまで和やかな空気だったのにいつのまにか一触即発になっていることもしばしばなのだ。
将棋、囲碁、チェスなんかのボードゲーム(なんかこれらを「ボードゲーム」と括ることもおこがましさを感じてしまっているが)はなにか崇高さを感じる。AIとの勝負を持ち掛けられ、負けた途端に「人類の敗北」みたいな見出しがつくのは、これらのボードゲームが人間性の象徴のように受け取られているからだろうか。しかし、饐えたにおいのする麻雀では人間性の崇高さが取り沙汰されることはなく、打ち捨てられている。
運の世界である。
どれだけ最善を尽くそうが、神経を研ぎ澄ませようが、駄目なときはどうにもならない。トッププロが、四巡目でアマチュアの役満に振り込むこともある。(中略)
麻雀のプロは、勝ちを積み重ねた人種ではない。負けて、負けて、ひたすら負けてきた者たちなのである。(中略)だから、ある種の覚悟に加え、独特の他者への眼差しが生まれるのだ。
――宮内悠介「清められた卓」より(『盤上の夜』東京創元社 所収)
人間性の高みではない。むしろ底辺の様相を呈している。が、そここそが麻雀の面白いところだとおもう。同じ卓を囲めば、色んなことがわかる。ここだけの話、嫌いな麻雀の打ち方をしている人間は麻雀と関係なくても嫌いになる。極端だなあ、とは自分でも思う。
将棋や囲碁のようにすべてが人事によって支配できるわけでもなく、またパチンコやスロットのようにすべてを天命に委ねるわけでもない。さらに、競馬や競艇のようにプレイを自身から手放すこともない。人事と天命のバランスが丁度よく、だから人間の汚いところがよく見える。他人のも自分のも。
勝つのは簡単である。牌の呼び声に従えばいい。スピリチュアルかもしれないが本当である。残り1枚のカンチャン待ちでも和了れるし、ドラ単騎待ちの立直も一発でツモれる。牌の言うとおりに打てば誰よりも早く立直できるし、他家に立直されても追いつけるし和了れる。なにしろ他人に振り込まない。
しかし、負けないのは大変だ。思った通りになんかいかない。一向聴が8巡つづく。残り1枚のカンチャン待ちに振り込むし、ドラは自分の手牌で浮き続ける。牌は欲しいところを微妙に外す部分に来るし、先に立直しても後追い立直に一発で振り込む。結果どの牌も危険牌に見えるし、実際危険だ。
だから、負けない立ち回りをすることに技術を要する。負けないために人事を尽くすべきだ。
勝者には女神がほほ笑んでいる。それに抵抗するために人事を尽くす。これが麻雀の醍醐味だと思っている。押し引きは天命が自分に微笑んでいるかがそれを決める。なんてオカルトなんだ!
こういったオカルト性は実際に会って卓を囲んだ時に顕在するのだろうと思う。『咲―saki』の登場人物、ステルスももちゃんが能力を使うと、同じ卓に座っている他家にはももちゃんの捨て牌が見えなくなる(立直宣言牌どころか、立直宣言までも)。しかし、その卓を俯瞰している解説席の実況者はしっかり見えているのだ。初めて見たときはゲラゲラ笑ったものだが、案外ありえるかもしれない。
もうちょっと現実的な話をすると、会社の先輩たちと卓を囲んだ時、1日中打って最終成績はだいたい年功序列だった。ウソと思うかもしれないけどホントである。正直ぼくより下手だな、っていう先輩にも負けた。
打ってるときの「場の空気」というのは本当に独特なもので、弛緩と緊張が急激に変化しながら繰り返される。緊張状態の時、場を支配できているかが勝敗を分けるわけで、そりゃ上司の方が場を支配しやすいわけだ。その支配を潜り抜けながら自分の被害を最小限に留める、なんなら他にも支配されている大体自分と同等の奴を蹴落としなんとかプラスであがる、人事を尽くすということはこういうことである。こういう麻雀をしているとき、ぼくはとても楽しい。
ぼくが麻雀を打って楽しいなと思うのは「負けない」打ち方がベースにある人である。もう全幅の信頼をもって卓を囲える。打ち手同士の信頼感が麻雀を楽しくするキモなのだ。
外出自粛でオンラインで麻雀を打っている。そして大体面白くない。場も適当で、打ち方も適当である。人事を尽くさない打ち手が多く、それならガチャでもやっていればいい。すべてを天命に任せることは打ち手が僕でなくてもいいのだから。反対に、牌効率ばかりを優先する打ち方も僕でなくていい。AIやCPUの方が牌効率のプロだ。僕たちは牌効率でAIやCPUに勝てっこない。将棋だって負けちゃってるんですよ?AIに。
人事と天命のバランスの良さ。だからこそ、(面白い)麻雀は人間にしか打てない。4人が知らず知らずに発する空気で力関係は多様に微妙に複雑に変化する。それによって配牌やツモの様子が変わっていく。その中で勝利条件が自ずと決まり、天命に身を委ねるか、人事を尽くして立ち向かうかも決まる。ツモごとに場況は変わり、さっきの作戦の変更を余儀なくされる。なぜ、その打牌をしたのかは、その空気の中で打った人にしか理解できないはずなのだ。だって、牌が見えなくなるかもしれないのだから。
はやく麻雀を打ちたいなと思う。人事を尽くしあうひりつきながらもエキサイティングな麻雀を。
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