「居酒屋の常連」学

街の居酒屋は、街の定点観測所である。

みたいな、格言めいたものを思いついたので、枕に置いてみた。しかし、これは確かにぼくの実感なのだ。そして、この後書かれるあれやこれやは、新卒の時分から4年間、週に一回ペースで通い詰めた居酒屋への謝辞である。


 4年前の3月下旬、採用された会社に出社しやがれとの指令が下り、部屋がないのでウィークリーマンションで寝泊まりしていた時、その居酒屋に入った。変に男子寮で鍛えられていたぼくは、新人のぼくをまったく飲みに誘わない職場の先輩方に物足りなさを感じてしまっていた。それが、「独り居酒屋」へと駆り立てたのだ。しかし、恐いことには恐いので、お守りの本を携えていった。独り、居酒屋へ本を読みに行く。


 そして、いつの間にか週に1回のペースで通うことになっていたぼくは「せんせい」として呼び習わされることになる。ぼくの本名が「たいしょう」や「おかみさん」に知られて根付くまでにおそらく1年ほどかかっているし、逆にぼくが「たいしょう」や「おかみさん」の本名を知ったのも1年以上経った後だ(それも、直接尋ねたわけではなく、周囲の会話を盗み聞いて)。週1で通っていれば常連同士の付き合いが生まれてくるわけだが、当然ながら常連さんの本名はとんとわからない。相手もぼくを「せんせい」と呼ぶ。


 「あにき」「ますたー」「まるちゃん」「ふくちゃん」「しんちゃん」「じゅんちゃん」「みっちゃん」「みーちゃん」「よっちゃん」……


 「はやしださん」「かさいさん」「よこやまさん」「そごうさん」など「(名字)+さん」と呼び習わされている方もいるが、居酒屋という空間において、これら本名に近い呼び名も上記の呼び名と”名前の重さ”がほぼ変わらない。これらの名前はその居酒屋でしか通用しない名前なのだ。


 その限定的な名前と学校や職場でつける(つけられる)あだ名と決定的に違うのは、「その呼び名の由来がわからないこと」であるだろう。つまり、お互いの本名がわからないこと。このことはたぶん、とても大きい。


 本名に付帯している情報は、存外多いのではないか。いや、情報というより、本名という唯一無二のものの持つ特殊性が本名を重いものとしていると思う。本名という固有のものがどうして重さを獲得しているのか、勉強不足だから言語化することができない。でも、そういった本名の呪縛から解き放たれて、軽やかな「居酒屋の呼び名」のおかげで社会とかいう荒波を乗り越えられてきたことは確かだ。


 いつも誰かの声が響いている。その声に耳を傾けてもいいし、ちょっと気になったなら参加して見てもいい。逆に、完全に無視してもいい。ファミレスほど区画がはっきりしておらず初対面の人同士が同じカウンターに横並びで座っているが、かといって必ず話さなければならないということはない。常に他人の身体や振動を感じながら、自分のしたいことをできる。そんな空間が心地いい。お互いの「あだ名」しか分からないそんな関係性が、心地よさを可能にしているのだろう。軽やかな、だけど身体という重さを感じる関係性。


 だからそこは現実という重力の井戸から遊離した場所なのだ。アルコールとニコチンの助けを借りて。あくまで助け。「場に酔う」なんて言葉が出現するように、居酒屋という空間そのものが、特別な空間なのだ。


 そんな場所に4年間もいた。来年度からはどうなるかわからない。今みたいに毎週通うという生活はすこし無理そうだ。だから、去る側になる。いままでたくさんの人を送ってきた。年度ごとに常連の顔ぶれがガラッと変わる。バイトも変わる。徒に感傷的になるのではなく、「また!」とお互いをねぎらう。離れる人はわざわざ一言申してから離れないし、来る人も勝手に暖簾をくぐる。その土地にたまたま同時期に住み、そしてたまたま同じ時間帯に同じ居酒屋のカウンターに座った者どうしがその特別な空間で少し仲良くなったりする。そんな、付かず離れずの人間たちをただ受け入れる懐の深さが、「街の居酒屋」にはある。


 知らない人の話す言葉がとても好きだ。その人の思いや考えを聞くのがとても好きだ。その場限りだとおもうから何の奇を衒うことなくいろんなことを話してくれるような気がする。


 いろいろな言葉がアルコールの揮発とともに中空に浮いていく。その言葉たちが落ち着くべき場所なんてなく、それでいい。いつのまにかぼく自身もそんな言葉たちと一緒に中空に浮かんでいる。ぼんじりの煙がお店中に充満する。だれかの好意的な笑い声が聞こえ、ぼくもすこし笑顔になる。街の居酒屋の魔法に助けられたぼくがいる。



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