ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』(高橋啓訳)感想 〈歴史〉を〈物語ること〉の倫理

 

 それは〈ここのいま〉から遠く隔たった地点で起こった。


 作戦名は「エンスラポイド(類人猿)作戦」。第二次世界大戦の最中、大英帝国政府とチェコスロバキア駐英亡命政府により計画された、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。「死刑執行人」「金髪の野獣」「第三帝国でもっとも危険な男」、ラインハルト・ハイドリヒ。「HHhH」とは「Himmlers Hirn heiβt Heydrich」の頭文字で、日本語訳すると「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」となるそうだ。


 悪名高い「ラインハルト作戦」というコードネームからも分かる通り、ラインハルト・ハイドリヒはユダヤ人政策の中枢にいた。語り手も言っている。

 ナチがハイドリヒの霊に払ったもっとも正当な敬意は、その葬儀でヒトラーがぶった演説ではなく、たぶんこっちのほうだろう。つまり、ベウジェツ、ソビボル、トリブレンカの各収容所の開設とともに、一九四二年七月から始まったポーランドの全ユダヤ人絶滅作戦のことだ。一九四二年七月から一九四三年の十月にかけて、二百万人以上のユダヤ人と5万人近くのロマがこの作戦によって命を落とした。この作戦の暗号名は〈ラインハルト作戦〉という。

――『HHhH』379ページ


 「ハイドリヒの霊」? そう、「第三帝国でもっとも危険な男」ラインハルト・ハイドリヒは第二次世界大戦の真っ只中の1942年5月27日、2人の暗殺者(ガブチークとクビシュ)に命を狙われ、6月、そのときに負った傷からの感染により死んだのだ。ナチス高官に対する暗殺計画の中で唯一成功した作戦、それがこの「エンスラポイド作戦」である。


 本書はこの「エンスラポイド作戦」について書かれた〈文学〉もしくは〈物語り〉である。そして〈物語ること〉にいささか神経症的に気を回しすぎている語り手によって〈文学〉もしくは〈物語り〉が紡がれていく様子である。よって、257もの断章のうち約半分近くが語り手の述懐だ。「エンスラポイド作戦」について。ナチについて。そして〈文学〉について。〈物語ること〉について。〈歴史〉について。


 語り手は〈文学〉について、または〈物語り〉について、強い忌避感と同時に惹きつけられ利用せざるをえない執筆状況に振り回されさまよっているように思える。例えば、

こうして太古の昔から、口当たりのいいスープを作るために歴史的真実をごまかしてきた人たちがいるおかげで、僕の古い友人のような男は、ありとあらゆる種類のフィクションに精通した結果、平然となされる偽造のプロセスにすっかり慣れ親しんでいるから、ただ無邪気に驚いて「あれ、創作じゃないの?」などというのだ。(改行)もちろん創作ではない!

――『HHhH』57~58ページ

とはいえ、文学の計り知れなく不吉な力を前にひれ伏してしまうことはある。この夢(=語り手がドイツ兵となってハイドリヒと出くわす夢)だって、ハイドリヒが小説的な次元で僕を感動させている明白な証拠なのだ。

――『HHhH』59ページ

 など。


 語り手はあまり〈文学〉だとか〈小説〉だとかの定義にはあまりこだわっていないようにみえるが、それでいい。ここでは〈歴史〉、つまり今回の場合は「エンスラポイド作戦」のような歴史的出来事を「口当たりのいい」ものに改編することへの忌避感というか、〈歴史〉を〈物語ること〉について、強く倫理的な態度を貫いている(貫こうとしている)ことが大事なのだ。それでも、〈歴史〉を〈物語ること〉でどうしても改編が起こることはどうしようもなく、いやむしろ〈歴史〉は改編を含まざるをえない〈物語ること〉でしか立ち現れない。

歴史的出来事は、物語行為によって語り出されることによってはじめて、歴史的事実としての身分を確立することができる。物語行為は、想起されたさまざまな出来事を時間系列にしたがって配列し、さらにそれらを一定の「物語」のコンテクストの中に再配置することによって、歴史的事実を構成する。それ以外の場所に、つまり物語行為によって語り出される事柄の外部に、「客観的事実」や「歴史の必然性」が存在しているわけではない。

――野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫、二〇〇五年)より

にて論じられている通りである。


 語り手は〈物語ること〉によるどうしても入り込んでしまう創作性に対して、潔癖症なまでに拒否をする。〈物語ること〉の魔力に取り込まれてしまいそうなときは恋人(だった?)のナターシャがツッコミをいれる。そのような過剰なまでに禁欲的な制限をかけてまで「エンスラポイド作戦」と実行者のクビシュとガブチークを文学に変換したのはなぜか。それはかつて実際に存在していたガブチーク(とクビシュ)を、そして彼らを物理的にも精神的にも支えた無数の名もない彼ら/彼女らを紙の上に復元したいのだ。「僕は、このヴィジョンを復元する試みもせずに生涯それを引きずっていきたくないのだ」(8ページ)。それはごく個人的なことであり、そしてその「復元」すなわち〈物語ること〉によって、「僕は奮い立ち、それによって自分を慰める」(211ページ)。そしてそれだけでなく、自分だけではないこの「慰めや励ましを必要としている人」=「読者」へと、「侵入するためには、まず文学に変換しなければならない」(211ページ)。


 おそらく、このような過剰ともいえる倫理観が最も示されているのは202章だと思う。ハイドリヒが「黒のメルセデス」にのって凶弾に斃れる(予定の)その瞬間を描く直前の断章である。ルネ・ブスケというフランス政府の高官についての断章だが、彼は対独協力の道を選び、ユダヤ人の強制収容に深くかかわった。そのブスケに対して語り手は「計り知れない嫌悪と深い軽蔑」を感じているのだが、怒りの主眼はそこではない。そのブスケを殺した一人の狂信家に対してである。

彼は無実の人間を殺したわけではないが、真実を葬り去ってしまったのだ。しかも、たった三分テレビに映るために! なんと愚かなウォーホール的異形の目立ちたがり屋よ! ブスケの生と死を倫理的に見つめる資格のある者がいるとしたら、それは犠牲者だけだ。(中略)この無意味な殺人の知らせを聞いて、彼らがどれだけ落胆したことか! このような振舞いを、このような狂人を生み出す社会にはもううんざりだ。(中略)真実に関心がない連中よりももっとひどいのは、進んで真実に手を加えようとするやからだ。

――『HHhH』281~282ページ


 ここには、昨今特に顕著になっている(なってしまった)と思われる、〈歴史〉をおもちゃにする人々の態度への反発である。〈歴史〉に対してあまりにも誠実でない態度への憎悪である。「死人に口なし」をいいことに、今現在生きている私たちにとってもっとも都合の良い歴史解釈が世間で我が物顔で流布されている。自身のアイデンティティを確立するためだけに利用された〈歴史〉は確かに自分の安息を保障してくれるかもしれないが、そこにはその〈歴史〉に関与した人々、確かに実在したその人々への目配りが欠けている。


 『HHhH』は歴史を〈物語ること〉の倫理を語った書なのだ。


 歴史を(どのようにであれ)語ることは、そのある歴史的出来事に関与したもう既に死んでいる「死者」の「声」を掬い取ることである。〈物語ること〉には(語り手も自覚している通り)物語る者の恣意性がどうしても働く。だからこそ物語る者の倫理感覚が重要になる。どのように「死者の声」を掬い取るのか。そのことに自覚的でなければならない。


 このことについて前述の野家啓一は『歴史を哲学する 七日間の集中講義』(岩波現代文庫 2017年)で「ただし、そうした倫理的態度は、歴史記述において明示的に叫ばれる事柄ではなく、あくまでも行間から読み取られるべき事柄であることを忘れてはなりません」と述べている。しかし現代という時代は、そうしたことを敢えて声高に「明示的に叫ば」なければならないレベルにまで劣化してしまっているのだろう。「死者の声」をあまりに蔑ろにした〈歴史〉が無数に人口に膾炙してしまっているから。


 〈歴史〉を〈物語ること〉への強すぎる倫理感覚に裏打ちされた『HHhH』は、「死者」の生々しい「声」で満ちている。ハイドリヒの、リナの、ガブチークの、クビシュの、ヴァルチークの、モラヴェッツ家の人々の、ベネシュの、そしてその他「エンスラポイド作戦」という〈歴史〉に関与した(せざるをえなかった)たくさんの人々の生々しい「声」が。


 座して聞かなければならない。声高な倫理感覚の主張とともに。そうすると、〈ここのいま〉から遠く隔たっているはずのプラハの街並みとあの一瞬が生々しくよみがえってくるはずだ。

 最後に、この本の全てを引用してから、閉じたいと思う。

 今から六十年以上前にこの納骨堂で起こった惨劇の跡が、そこには恐ろしいほど生々しく残っていた。外から見える地下の採光窓の裏側、数メートルにわたって掘られたトンネル、壁と丸天井に残るたくさんの弾痕、二つの木のドア。(中略)ロンドン、フランス、外人部隊、亡命政府、リディツェという名の村、ヴァルチークという名の若い見張り番、よりにもよって最悪のときに通りかかった路面電車、デスマスク、密告者のための一千万コルナの報奨金、青酸カリのカプセル、手榴弾、それを投げる人、無線機、暗号によるメッセージ、足首の捻挫、当時イギリスでなければ入手できないペニシリンのこと、「死刑執行人」とあだ名された男の支配下に丸ごと入った街、鉤十字の旗と髑髏の記章、イギリスのために働いていたドイツ人スパイ、タイヤのパンクした黒のメルセデス、運転手がひとり、虐殺者がひとり、ひとつの棺を囲む高官たち、遺体を覗き込む警官たち、恐るべき報復の数々、崇高と狂気、弱さと裏切り、勇気と恐怖、希望と悲しみがあり、わずか数平方メートルの部屋に集められた、人間のありとあらゆる情熱があり、戦争と死があり、強制収容所のなかのユダヤ人、虐殺された家族、戦死した兵士がいて、復讐と政治的計算があり、なかんずくヴァイオリンを奏で、馬術をたしなむ男がいて、自分の仕事をついに遂行することのできなかった錠前屋がいて、これらの壁に永遠に刻みつけられたレジスタンスの精神があり、生の力と死の力のあいだで繰り広げられた闘争の痕跡があり、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアがあり、いくつかの遺志に封じ込められた全世界史があった。
 外には七百人以上のナチ親衛隊がいた。

――『HHhH』13ページ


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