円城塔作『エピローグ』感想

 「僕たちはあらゆるものを失うことができる。」ってすごい秀逸な帯の惹句だと思いませんか?というわけで、円城塔『エピローグ』の感想です。以下あらすじと冒頭引用。


オーバー・チューリング・クリーチャ(OTC)が現実宇宙の解像度を上げ始め、人類がこちら側へと退転してからしばらく――。特化採掘大隊の朝戸連と相棒の支援ロボット・アラクネは、OTCの構成物質(スマート・マテリアル)を入手すべく、現実宇宙へ向かう。いっぽう、ふたつの宇宙で起こった一見関連性のない連続殺人事件に謎に直面した刑事クラビトは、その背景に実存そのものを商品とする多宇宙間企業イグジステンス社の影を見る……。宇宙と物語に、いったい何が起こっているのか?


 私の最初の恋人は、誰かの空想の産物だった。
 彼は、ラブストーリーを生業にするエージェントの家に生まれたからだ。
 わたしたちが仲よくなったのは、二人の間にラブストーリーを匂わす要素が微塵も見当たらなかったからにすぎない。二人の間には、席が隣になることも、街角で出合いがしらにぶつかることも、階段で偶然相手を突き飛ばすことも起こらなかった。


 ……こう、わけのわからない用語の海に投げ出される感覚って、いいよね(?)


 チューリングテスト、って、知っているだろうか。みんな大好きWikipediaによると、


アラン・チューリングによって考案された、ある機械が知的かどうか(人工知能であるかどうか)を判定するためのテスト。


とあり、要は、知的かどうか、つまり、人間と同じであるか、を判定するテストなのである。その詳細は、いろいろな哲学入門書(一つ上げるとするならば、戸田山和久『哲学入門』)にも取り上げられており、そうでなくとも、さっきのWikipedia参照してもいいだろう。詳しいことはここでチェック!


 OTC(オーバー・チューリング・クリーチャ)はだから、チューリングテストを合格できる知能であり、人間よりも人間っぽい知能であるといえる。まさに人外。人の与り知るものではないのだ。いわば、人間の高次の存在。


 そんな彼(?)らが「現実宇宙」つまり今私たちがいるこの宇宙、が「解像度」を上げ始めた結果、大半の人類が死んじまったため、「こちら側」へ「退転」した……。


 って、わけわかんねぇ!!あらすじを補足するだけですげー長さになりそう。しかも、全部補足できるほど、読み込めていないのも事実、、、


 なので、(いつもそうなんだけど)感じたことをただ書き記していこうと思ふ。つれづれなるままに~。ちょっとネタバレがあるかと思われます。


 僕はいま、このように『エピローグ』の感想を綴ることで、自己を、自我を複製していることと同義だ。この文章が自立し、もう一人の「僕」として活動し始めても、不思議じゃない。いや、不思議か。でも、僕が自我を保つためにこのように書いた文章や、奏でた音楽や、発した言葉や、これらのように表現した数々の僕の痕跡、複製が、その時だけしか意味をなさないなんて、悲しいことのように思える。


 そして僕たちは、OTCやインベーダーなどの高次の存在により、僕たちの存在が危うくなっても、自分を表現することによって、自分を保つことができると。書いて、弾いて、叩いて、しゃべって。そこまでして自分を保とうとする人類ってのは業が深いのかもしれないし、それをすることによって自分を保てる人類ってのは素敵なのかもしれない。


 自己を複製しても、段々とずれていく、ってのは作中に示されている現象であるんだけど、これは突拍子のないことではない。このブログから立ち上がる「僕」の姿とtwitterから立ち上がる「僕」の姿と、読書メーターから立ち上がる「僕」の姿と、そしてリアルから立ち上がる「僕」の姿と。確実にすこしずつずれがある。それでも全て「僕」であり。そここそが、「僕」を保つために必要なずれ、バグなのかなあとか思ったり。


 ……誰に向けて文章を書いているのかを見失った。


 わからないが溢れる世界を読むのは苦痛になることがある。わかるという実感は快感だから。わからないは苦しいだろう。でもそこで諦めず、わかろうとする態度がSFを面白く読むコツだ。円城塔さんは「わからない」が快感となる稀有な作品の書き手である。前提として「分かろうとする態度」がないと辛いけれども。その点で、円城さんの作品は一読の価値がある。


 わからないの奔流に身を任せてはいかがだろうか。

 帯の惹句は「僕たちはあらゆるものを失わざるをえない。」でないところが非常に秀逸な点だと思います。

0コメント

  • 1000 / 1000