田中啓文作『イルカは笑う』感想

 一時期、落語をラジオで聞いていたことがあった。AMラジオでやっていたそれは、軽妙な語り口とわかりやすい笑いで、少しだけ幼い僕を夢中にしていたように思う。


 落語の新しい形、というか、活動として「ハナシをノベル」という創作落語会がある。そこで演じられる演目は全て、作家さんの書き下ろしなのだが、そこに寄稿している作家のひとりがこの田中啓文さん。本作『イルカは笑う』に収録されている短編の中にも、「ハナシをノベル」で披露された噺が収録されている。


 そんなわけで、紹介文引用。


最後の地球人と地球の支配者イルカの邂逅「イルカは笑う」、倒産した日本国が遺した大いなる希望「ガラスの地球を救え!」、ゾンビ対料理人「屍者の定食」、失われた奇跡の歌声が響く「歌姫のくちびる」……感動・恐怖・笑い・脱力、ときに壮大、ときに身近な12の名短編。日本人よ、これが田中啓文だ!


 表題作書き出し。


 目的地アルクトゥースが近づき、海水の充満した宇宙船は到着準備をはじめた。三頭のイルカは尾を打ち振り、流線型の身体をしなやかにくねらせて、操縦室を泳ぎまわり、それぞれの保護カプセルに身をゆだねた。カプセルの蓋が自動的に閉まり、内部はゼリー状の赤い物体で満たされた。同時に、船内の海水がゆっくりと減っていく。宇宙船後部にある巨大なタンクに収納されるのだ。


 しかし、この短篇集、悪ふざけがすごい。もちろんいい意味で、である。「本能寺の大変」なんて、バックグラウンドがわかるとクソ笑えるし、「屍者の定食」の題名のひどさといったら。しかも『屍者の帝国』は読んでいなくても、全く問題がありません。そんなところも笑いどころの1つ。


 ダジャレや言葉遊び、それがストーリーとマッチしていたり、全然関係のなさそうな両者がそれによってつなぎ合わされたりすると、おお、と感嘆の声を上げるのと同時に、ニヤッと笑えてしまう。そんな笑いの方向があると思うのだけれど(詳しくないから言い切ることはできないが、それが落語っぽいということ?)、それを小説という形にしているのが田中さんじゃないだろうか。


 笑い、っていうのは、動きがついてこそのものであると思う。お笑い芸人のオーバーなリアクションを面白いと思ったり、その言葉を発するときの表情のアンバランスさをおかしいと思ったり。聴衆は言葉だけでなく、演者の身体をも笑いの要素として見ているはずだ。落語家の方だって、正座でオーディエンスに語りかけているものの、その表情、扇子を使った日常の演技などを用い、体全体でパフォーマンスをしている。だから、ネタの台本だけ読んだって、あまり面白くないことも多々ある。


 間、も大事だ。言葉を発するタイミングで全然別物のネタになる。かぶせたり、空白の時間をとったり。これらを享受するには、話をきいて、演者を見る、という場にいなければできることではない。


 しかし、『イルカは笑う』は笑いを伝達する手段が文字のみで、さらに、その文字を提供するタイミングも読者に任せられている。にもかかわらず、面白いのだ。これは容易なことではない。そして、文章から「わたし、すごいでしょ?」みたいな空気が感じられないのも、すごい。


 なんで、こんなに面白いのか、詳細に考察はできないけれど、一つに挙げられるのは、文字遊び、ではないか。「血の汗を流せ」の主人公は、その名も星吸魔。『巨人の星』の主人公・星飛雄馬がバンパイアで、汗の代わりに血を流す吸魔が甲子園を目指す短編。そんなことが題名と星吸魔という文字から、手に取るようにわかる。結局、吸魔は甲子園中の人間の血を吸い、文字通り甲子園を血の池地獄にしてしまうのだが、最後に残った審判が、「私は、審判の最後の一人……つまり、〈最後の審判〉だ。」とドヤッと言ってのける場面では声を出して笑った。


 文字媒体のみで面白くする方法が、この本の中に詰まっている。ように思う。


 面白く、くだらない中にも、人間の業のようなものもしっかり描かれていて、笑えばいいのか、ゾッとすればいいのか、振れ幅が大きいものもあり、置いてきぼりを食らった感覚も味わえる。その突き放された感じも心地よい。


 一番好きなのは「歌姫のくちびる」か。ホラーにジャンル分けされるようだけど、読めばわかる。この短編はすごい。くちびるが一斉に歌いだすあの場面の臨場感は一度とは言わず、何度味わっても損はない。

 解説は酉島伝法さん。たしかに、共通点ありました。

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