『伊藤計劃トリビュート』より、二作目。作者の伏見完(ふしみたもつ)さんは長野県出身らしい。しかもいっこ上。そんな人が本の向こうにいるってのは、なんだか不思議な気持ちである。(20代男性)ってのになってしまったのだなあと感じられ。
そんな感じで書き出し引用。
姉と最後にこうして向かい合ったのは、どれくらい昔のことだろう。ついこのあいだのような気もするし、何十年も前だった気もする。
「久しぶりだね、有香」
「お姉ちゃんこそ」
けれど本当は生まれてから今まで、正確な意味で姉と向かい合ったことなど一度もないのかもしれない。ただ巧妙な計算と良質なフィードバックがわたしをそのように錯覚させていただけで。
双子の姉妹のうち、妹の有香が主人公。姉の八音はへその緒を切られても自発呼吸は止まったままであり、新生児集中治療室に移されるものの、蘇生は絶望的であった。そこで、両親がとった手法が、「姉の中枢神経系をまるごと仮想化する」といったものであった。
つまり、人間を二次元化する、といったところであろうか。八音は脳をスライスされ、脳のニューロン構造と、そこに残っていた意識の萌芽を精密に写し取られ、脳機能はパラメータ化され、機械の中に落とし込まれた。
そんなデータ化された姉・八音と肉体を持つ妹・有香との関係を有香目線で捉えた作品がこの「仮想の在処」である。
八音は普通に成長する。普通に笑い、泣く。まるで実際の人間のように。それでも感じる違和感。八音は人間っぽさが希薄だ。’’人間っぽさ’’って、不用意に使ったけれど、人間っぽさって何だろう。八音と違い、妹の有香はすごく’’人間っぽい’’。対照的に造形されていることは確実だろう。そんな両者の違いは一体何なのか。八音には悩む、という描写が一切ない。そこではないかと思う。一方、有香は終始悩み、劣等感に苛まれ、息苦しさがある。そんな息苦しさこそ、’’人間っぽさ’’なんじゃなかろうか。
必要ないからだ。姉の知性は嬰児の脳を初期状態として、欠くことのできない機能をみずから獲得していった。生身の脳はそうして成長する。日本語を母語として育った人間がいつしかLとRの発音を区別できなくなるように、人の脳は発達の過程で不要な能力を刈り込み、必要な能力を伸ばしていく。
そうして完成された姉の脳は、しかし、というか、それゆえに、というか、当たり前の世界で当たり前に成長した人間の脳と、まったく同じではない。だからこそ姉は発狂せずにいられるのだ。自分という感覚だけがぽっかり浮かんでいる電子の海で姉は生まれ、その空間に順応した。彼女は他者を理解しない。
有香は八音の獲得した能力を「模倣と擬態。ばらばらに置かれたリソースの束を結合し、人間らしく見せかけること」としている。なぜ、そんな能力を持つに至ったかというと、(本書でも言及があるが)「愛されること」が八音の存在意義だったからである。
八音は愛されるためだけに命を機械に落とし込んだ。子は全て、愛されるためにこの世に産み落とされるが(そうでなければならないだろうが)、大きくなるにつれて、「愛される」という受け身ではなく、「愛する」ことを覚え、実行していく。それが成長ってことなんだろうが、八音は「愛されること」が至上目的である。まずは両親から。それから、妹の友達から。妹のボーイフレンドから。そして、妹・有香から。
誰からも愛される存在である八音を有香はどうして私じゃないのと疎ましく思いつつも、愛さずにはいられない。愛されるだけなら、他者を理解する必要もないのだろう。
物語終末、「愛されること」を目的とする存在の多く出現する未来がほんの少し顔を出すが、法整備によって規制される。八音もまた、資金難という現実的すぎる理由により、この世を去る。
それでも、八音は有香の中に生き続けている。思い出として。有香の脳の中に。高度なテクノロジーは、人間が生きる上で普通にこなしている営為を改めて当たり前である、ということを照射しているのかもしれない。
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