大学に行くために上京して、そして2年後の成人式。久しぶりに会う小学校の同級生たちは何も変わっていなかった。小学校時代の人間関係を二十歳になっても続けていた。小学校時代のように振る舞い、僕みたいに久しぶりに帰ってきた同級生を小学校時代のように扱った。まるでタイムスリップしたかのような感覚だった。
別に彼ら(彼女ら)を馬鹿にしたり、断罪しようとする気持ちは全くない。しかし、そこにはある種の(僕の感じる)息苦しさがあったのは事実だ。そんな地方特有の(と言ったら語弊があるかもしれない)息苦しさを感じさせたのが辻村深月作『鍵のない夢を見る』だ。以下、あらすじ引用。
どうして私にはこんな男しか寄ってこないのだろう?放火現場で再会したのは合コンで知り合った冴えない男。彼は私と再会するために火を?(「石蕗南地区の放火」)夢ばかり追う恋人に心をすり減らす女性教師を待つ破滅(「芹葉大学の夢と殺人」)他、地方の町でささやかな夢を見る女たちの暗転を描き絶賛を浴びた直木賞受賞作。
そして、一作目の短編「仁志野町の泥棒」の書き出し。
生温かいバスの車内で、前に立った彼女の顔を見た時、「あ、りっちゃん」と思った。一体何年ぶりになるだろう。意志の強そうな目と黒く艶やかでまっすぐな髪が変わっていない。
観光客に頭を下げ、「おはようございます」とマイク越しに声を張り上げる。うちの母のような中高年を相手にすることに馴れた、落ち着いた声の出し方だった。
辻村深月さんは個人的にとても思い入れのある作家さんで、この『鍵のない夢を見る』で直木賞を受賞され、それで一躍有名になった感があるが、それ以前(中学生のころ)にあった、書店での処女作『冷たい校舎の時は止まる』との(僕にとって)衝撃的な出会いを経てから、常に動向をチェックする作家さんになった。
そんな作家が直木賞を受賞と、とてもうれしかったが、内容はティーンズ向けではなさそうであったこともあり、単行本に手を出すことができなかった。なぜか、辻村さんが遠くへ、手の届かないところへ行ってしまったように感じたからだろう。辻村さんは僕の成長を待たず大人向けの作家になった。やっと、僕が成長することができたために、手に取った次第。
さて、『鍵のない夢を見る』の内容へ。本書には五編の短編が収められていて、僕なりの共通点を述べるならば、「息苦しさ」だろうか。地元の息苦しさ、男女間の息苦しさ、そして親子間の息苦しさ。冒頭にも述べたとおり、地元の息苦しさは僕自身も感じるところがあり、あの二年前(もう二年前!?!?)の息苦しさを想起させられて辛かった。話の内容は成人式とは全く関係がないが。一作目の「仁志町の泥棒」は、大人になった主人公が偶然「りっちゃん」と邂逅することをきっかけに小学生時代のある事件を思い出す、という構成で、その回想の部分が非常に良い。大人になるってのは上手に妥協すること、というのを自然な流れで主人公がしょうがないこととして(違和感を感じながらも)受け入れていく様子が描かれている。そこに地方独特の閉塞感とか、人間関係の距離の近さとか、それ故の人間関係の変えられなさとかが絡まって、とても好き。辛いけど。
また、全短編の主人公が女性であることも特徴だろうか。やはり、男女の差ってのは大きい。男の僕が読んでいて、あ、そういう世界もあるのか、ぐらいしか感じることのできない考え方や思考がポンポン出てきて、そういう意味では面白かったけれど、女性が読んだ方がもっと感じることが多いのではないだろうか。「仁志町の泥棒」は子供という切り口からの短編だったため、男の僕でもガツンとくるものがあったけれど、二作目の「石蕗南地区の放火」、三作目の「美弥谷団地の逃亡者」、四作目の「芹葉大学の夢と殺人」は男に振り回される女性の話、五作目の「君本家の誘拐」は赤ちゃんの世話をする母親の話と、現在の僕と乖離している話ばかり(恋愛経験少なすぎとか笑わないでください、何でもしますから!)。年齢設定も現在の僕の5~6歳上になっている。それでも、実際にあるのだろうと男の僕にも予感させるような筆致はお見事。直木賞受賞作は伊達じゃない。
女性ってすぎょい。この本を読んで思ったこと。
辻村さんは子供を切り口にして物語を紡ぐことを得意としていた印象があったが、大人な切り口でも遜色のなく、懐の深さを感じさせられた。でも、たまにはティーンズのところにも戻ってきてほしいな。
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