入不二基義著『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』感想

 この装丁、めちゃかっこよくないですか!?!?!?!?!?


 黒地に白抜きのタイトルというシンプルなデザイン。しかしよく見ると「THE FATE OF FATALISM」ってあるわけです(実際のは画像のようにくっきり見えない)。すっげーカッケーなって。本棚にこの本置いてあったらその本棚、部屋、そしてその部屋の住民までカッコよくなりそうって。。。。カッコよくならない?読むとき触って指紋をベタベタつけるのがもったいないくらい。飾っておきたい、、、

 

 そんなことを思っていたら。

 おお!!!やっぱりカッコいいじゃねえか!!著者の入不二基義さんも買ったときは知らなかったし(読んでる途中にすげー人だって知りました、すみません)、哲学書を買う動機としてはかなり低レベルだと思うけど、装丁のカッコよさ(デザイン性の良さ)ってのは僕にとってはかなり大きい。2500円(!)をためらいなく出させるそのデザインに乾杯(僕は講談社に完敗)!!


 さて、『あるようにあり、なるようになる』の内容へ。以下冒頭プロローグ引用。


 本書のテーマは運命論(fatalism)である。運命論は、運命の存在を肯定しようとする議論である。その議論は、これまで、多くの批判に晒されてきたし、また多くの擁護者も生み出してきた。
 私はこれから、その運命論を少しずつ移動させて、書き換えることを試みる。「移動」「書き換え」とは、運命論をただ単にそのまま擁護することではないし、運命論を論駁して葬り去ることでもない。むしろ、移動先や書き換えられた姿は、両者の〈中間〉に位置することになるだろう。運命論も反・運命論もどちらも勝たないし、どちらも負けない。しかも引き分け終了もない。そのような特別な〈中間〉へと運命論を移動させて、書き換えていく。


 はじめに断っておくと、僕はこの本について全てを理解できたとは思っていない。むしろ半分も理解できていないだろう。だから、この先つらつらと書かれるだろう感想は恐らく(というか確実に)、間違った解釈や思考の浅さが滲み出るものになる。なので、この本に対する僕の考察を求めている人には頭にくる(こいつしっかり読んでるんか!?!?みたいな)内容になるので、そこらへんはご了承ください。動機が動機なので、「運命」には興味はありましたが、それに対する哲学的な知識は皆無の中読んだので、註に挙げられていた本は全部未読です。これから長い人生の中で少しずつ読んでいく所存であります(敬礼)。


 「運命論」という哲学的な議論の中には、いくつもの重要なテーマが潜在している。たとえば、「現実(性)」「時間」「存在と無」「必然と偶然」「自由」……等々。どれも哲学上の大問題になりうるテーマである。本書では、「運命論」の議論を検討することを主軸としつつ、関連するそれらのテーマについても私なりの思考を刻みつけていきたいと思う。


 ……なんてものに手を出してしまったんだ。。。でも、読みやすい。その読みやすさの原因はあとがきにもあるように、講談社の月刊PR誌『本』において連載されていた、ということが大きいだろう。エピローグとプロローグ、そして25の章からなる本書は各章にヤマがあり、さらにはじめに前章のまとめが簡単に書かれる。そして、逐一この章ではこのことを確認してきた、と明示してくれるので、読者が置いてきぼりになりにくい。扱っているものが概念的なものだから、この工夫はとてもありがたかった。


 僕自身の考え方は著書の中の言葉で表すと「解釈的運命論」だろうか。著書で考察対象となっているのは「論理的運命論」であり、「解釈的運命論」ではない。だから、「こういうものの見方があるのか!」ととても新鮮だった(それぞれの内容については読んでね)。SFを読んでいると、「現実」というものが「時間」というものが、本当に不確かなものに思えてくる。神林長平作『ぼくらは都市を愛していた』とか読むと自分という存在が、それを取り巻く環境(現実、時間)がぐらついて不安になる。それは、人間が認識している世界が脳みそを介さないと認識できないということを小説を読むことで突きつけられるからだろう。そんな不安を取り除いてくれた。現実や時間はそこに厳然とある。そんなことを論理的運命論を考察して行く中で教えてくれる(ような気がする)。この本を読むことでこの世界がかなり確かなものになった。この世界は「あるようにあり、なるようになる」のだ。「ケ・セラセラ」。気楽に行こうではないか。


 哲学書を読む楽しみは、当たり前のことを捉えなおし、本当に当たり前なのかを考え直すことだと思っている。この著書でいうと、「現実」「時間」がおおきな考察対象だろう。「現実」も「時間」も、あって当たり前だろう、といった概念だろうが、そんな強固なものじゃない。考えてかんがえて、そして定位していかなければならないものなのだ。ひとそれぞれの当たり前ではない「現実」像や「時間」像や「  」像や、、、があっていい。当たり前のことに疑惑の目を向けることが大事なのではないか。そして、他人の考える「  」像を知ることができるのが哲学書のいいところだと感じる。いろんな考えを摂取して自分の考えを形成していきたい。


 哲学書は本の腹が汚れで茶色くなるまで、本が広がってしまうまで、指紋ベタベタになるまで読んでこそ真価を発揮するんじゃなかろうか。今読んだだけでは半分も理解できなかったこの本も、何回もよみなおしながら、この先生きて、また、たくさん知識を蓄えてまた再読した時に新たな発見があるだろう。今からそのときが楽しみで仕方がない。


 

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