世界の終わり。世界の終わりが来るとしたら?なんか寝てるうちに世界終わってそう。それはそれで幸せなのかも。SEKAI NO OWARIの深瀬君は世界の終わりを最近体験したらしいが、それはちょっと置いておいて。「我々は世界の終末に備えています」と豪語する人物が現れたらどうするだろう?今回の江波光則作『我もまたアルカディアにあり』はそんな感じで始まる。以下あらすじ引用。
我々は世界の終末に備えています――そう主張する団体により建造されたアルカディアマンション。そこでは働かずとも生活が保障され、ただ娯楽を消費すればいいと言うが……創作のために体の一部を削ぎ落とした男の旅路「クロージング・タイム」、大気汚染下でバイクに乗りたい男と彼に片思いをする不器用な少女の物語「ラヴィン・ユー」など、鬼才が繊細な筆致で問いかける閉塞した天国と開放的な煉獄での終末のかたち。
それと、この本の書き出し。
「我々は世界の終末に備えています」
と、熊沢が自信満々に俺に言った。熊みたいな大男で髭モジャの顔で、名は体を表すという言葉そのままの存在で、日本人離れしていた。黒スーツ姿がやけに似合うが、カナダの木こりみたいな格好をしてもやはり似合うだろう。身長は俺より十センチは高く体重に至っては二倍はありそうだった。
それにしたって「世界の終末に備える」と来たもんだ。
この世には杞憂という素晴らしい言葉がある。
東アジアの盟主様が紀元前から伝えてくれたいい言葉だ。
本の書き出し(所謂本の枕)をここに書くのは記録のため。僕の個人的興味のため。書き出しってかなり重要じゃないですか、読者をひきつけるために。作者の方がどんな工夫を凝らしているか概観できたら、と思っているのです。
世界の終わり、終末を題材にした作品を初めて読んだのは、伊坂幸太郎作『終末のフール』だったような気がする。中学生のころだったと記憶しているが、すごく印象に残っている。終末を迎える上で人々はどんなことを思い、どんな生き方をし、どんな死に方をするのか。そんな人間模様を読むのがとても面白かった。そんなわけで世界の終末を描く作品は大好物なのです。
閑話休題。『我もまたアルカディアにあり』。英題としてつけられているのは「Et in Arcadia ego.」ラテン語の名言であるらしい。直訳は「私もアルカディアにあり」。ウィキペディア先生によると「私」は「死神」のことであり、メメント・モリ(「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を記憶せよ」という警句)の一種であるそうだ。そこが理想郷であったとしても、死からは逃れられない、というような意味合いだろうか。逆説的に(使い方合ってる?)理想郷など無いのだ言っているようにもとれるような気がする。
しかし、『我もまたアルカディアにあり』を読んだ後、この言葉にメメント・モリ的な意味合いは解釈できなくなる。たしかに作品世界の舞台はメメント・モリ的な意味合いが強い。描かれる「理想郷」は「ディストピア」そのもので、しかし、みんなが少しは考える「理想郷」なのだ。そしてその「理想郷」が築かれるまでの過程は実際にありそうで危機迫るものがある。しかし、末尾まで読むとこの作品の主人公たちは「理想郷」を見つけることができたのだと感じられる。そんな意味でこれは壮大なラブストーリーなのである。
一本の太い軸の話に、それに派生するような、それを補うような、相補的な関係の短編4本という面白い構成。すべての始まりはその一本の太い軸だ。ばらばらに見える合計5つの物語は作品世界を奥行きの持ったものとさせる。そこから浮かび上がる舞台はとても魅力的だ(行きたいという意味ではない)。
いちばんのお気に入りは「ラヴィン・ユー」。凡人が天才を追いかけ、気付いてほしいとそばにいながらも、凡人であることに自覚的であるため、向こう見ずだったはじめの一回しか天才の領域に踏み込めなかった女性の話。凡人が天才を追いかけ、その身を削ってまでもその領域に無理やり押し上げ追いつこうとした「クロージング・タイム」よりもこちらが好きなのは、僕自身が特別でありたいと思いながらも凡人であることにどこか自覚的であるからか。「ラヴィン・ユー」末尾の出来事はとても印象的。凡人の領域の中で恋した天才に追いつこうとする姿はとても健気でかわいらしい。
世界の終わり。世界の終わりって何なのだろう。自分が死ぬこと?人類が滅ぶこと?そんなことは分からないけれど、たぶん世界は終わらない。そして人類は滅びないだろう(自分は死ぬだろうが)。だって、『マッド・マックス』の世界だって、『ターミネーター』の世界だって、『マトリックス』の世界だって、世界も人類も終わってないじゃない。思ってるより僕たちは図太いはずだ。そして、ふとした瞬間に自分にとっての理想郷に行けるんだろう。だって、「ぼくもまたアルカディアにいる」のだから。
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