なんか、教養として、現代文学の有名作品を読んでおかねば、という気持ちになった。というわけで第一弾、綿矢りさ『蹴りたい背中』です。最年少芥川賞受賞で、世間を賑わした本作品。天邪鬼の私は、世間で賑わってるものは読みたくない人だったので、読んでいませんでした。そのこと、非常に後悔しております。
以下、あらすじと冒頭引用。
”この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい”長谷川初実は、陸上部の高校1年生。ある日、オリチャンというモデルの熱狂的ファンであるにな川から、彼の部屋に招待されるが…クラスの余り者同士の奇妙な関係を描き、文学史上の事件となった127万部のベストセラー。史上最年少19歳での芥川賞受賞作。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠るげに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠るく。っていうこのスタンス。
この小説は”アンチ・青春(恋愛)小説”と言える。というか、そんなようなことは「解説」の斎藤美奈子さんが十全に書かれてしまっているので、ここで改めて書く必要はまったくない、というのが正直なところ。
この「解説」の強度が高すぎて、読みがどうしても引っ張られる。これはいかんともしがたい。
読書メーターの感想をざっと眺めても、斎藤美奈子さんの「解説」の受け売りが多数。強すぎる、、、!!!
ならば、僕は「解説」の補強をすることにしようと思う。「解説」最後の一節、
青春前期は潔癖なのです。読者の共感すらも拒絶するほど潔癖なのだ、と申し上げれば、わかっていただけるでしょうか。
――斎藤美奈子「解説」183ページより
ハツこと長谷川初実は作中、相反する気持ちに振り回される。そのことがよくわかるのが、この部分。
「長谷川は練習頑張るから、これから伸びるはずだ。」
力強く言われて、不覚にもじんときた。先生から目をそらしながら、泣きそうになる。やっぱり先生は嫌いだ。
認めてほしい。許してほしい。櫛にからまった髪の毛を一本一本取り除くように、私の心にからみつく黒い筋を指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。
人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何一つ思い浮かばないくせに。
――109ページより
ここに、ハツの心性が見事に表現されていると思う。
自意識の過剰なまでの肥大化が招く、相反する気持ち。アンビバレンツ。
仲よくしたいのにしたくない、気持ち悪いのに気持ちいい、「人にしてほしいことばっかりなんだ。人にやってあげたいことなんか、何一つ思い浮かばないくせに」。あんなやつらとなれ合いたくない、「クラスの人たちのことどう思う?」「レベル低くない?」
何者かに近づきたい/何者も寄せ付けたくない。この両者の揺さぶりが大きくなると、ハツのモノローグが挿入される。
それは、どこか官能的で。グロテスクで。詩的だ。五感は肥大化しすぎて、それぞれの境界までも乗り越えてしまう。「さびしさは鳴る」(7ページ)、(オリチャンの顔写真と少女の裸がセロテープでつぎはぎしてある「作品」を見て)「濃縮100%の汗を嗅がされたように、酸っぱい」(72ページ)、「暗闇の中に絹代の言葉が浮いて、ぼうっと光る」(166ページ)。これらが相反する気持ちの振れ幅が大きくなるトリガーとなる。
そんなハツの、「人にやってあげたいこと」は、おなじあぶれ者のにな川を「蹴る」ことだった。
蹴りたい、さわりたいなめたい。痛めつけたい、見ていたい。
五感ばかりが先鋭化しているハツはこういった衝動的な行動をとることでしか、感情を表現できない。裏を返せば、「”笑いこらえ筋”」まで鍛えざるを得なかったハツが、感情を唯一表現できる人が、にな川だ。すべて、衝動的な感情の発露だから、名前を付けられない、未分化なものだ。
名前の付けることのできない感情に突き動かされる、もしくは名前を意地でもつけない、そんなところに、「潔癖」を感じるのです。
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