小田雅久仁作『本にだって雄と雌があります』感想

 本を読みながら、ぶふっ、と吹いた経験はあるだろうか。しかも、何度も。落語を元にした小説なども読んできたが、ここまでの長篇で、しかもただ、笑わせるだけじゃない、そんな本を、傑作と言います。ははっ、こりゃ傑作だ。


 以下、あらすじと冒頭ね。


本も結婚します。出産だって、します。小学四年生の夏、土井博は祖父母の住む深井家の屋敷に預けられた。ある晩、博は祖父・與次郎の定めた掟「書物の位置を変えるべからず」を破ってしまう。すると翌朝、信じられない光景が――。長じて一児の父となった博は、亡き祖父の日記から一族の歴史を遡ってゆく。そこに隠されていたのは、時代を超えた〈秘密〉だった。仰天必至の長篇小説!


 あんまり知られてはおらんが、書物にも雄と雌がある。であるからには理の当然、人目を忍んで逢瀬を重ね、ときには書物の身空でページをからめて房事にも励もうとし、果ては跡継ぎをもこしらえる。毛ほども心あたりのない本が何喰わぬ顔で書架に収まっているのを目に止めて、はてなと小首を傾げるのはままあることだが、あながち斑惚けしたおつむがそれを買いこんだ記憶をそっくり喪失してしまったせいばかりとは言えず、実際そういった大人の事情もおおきに手伝っているのだ。


 この冒頭だけでも軽妙な語り口ににやにやしてしまうのだが、こんなのは序の口である。あれよあれよと怒濤のくだらないダジャレとユーモアの奔流に呑まれていく。


もし執筆の現場を押されたら、お母さんはどう出るだろう。零点じゃないかぎり怒らないから見せてみなさい、とか言うんじゃなかろうか。ああ、きっとそうだ。そして零点なんだ。お母さんは書評家として何に厳しいと言って、文章におけるユーモアにもっとも厳しい。笑えないユーモアを本に挟まった陰毛よりも嫌っている。お母さんはきっと言うだろう。なんでこれが零点やないって思ったわけ?そ、それは、上手に名前が書けたら5点はもらえるって先生が……。

――94ページより

 

 この引用で、それこそ居間でゴロゴロしていて手に陰毛が引っかかっているのを発見した時のように、仏頂面になるような人間はいないのではないか。


 ……真似しようと思って書いて見たけど、自分にはセンスがないみたいだ、、、


 そもそも、この本は「幻書」なるものがガジェットで出てくる。「混書」とかいろいろと呼び方はあるようだが、深井家では「幻書」と呼ばれていた。


 それは、本と本のめぐり合わせが悪いと(良いと?)生まれる。本と本との間に生まれる本こそが、「幻書」である。作中で現れた「幻書」の一つはミヒャエル・エンデ『はてしない物語』とジャン・ポール・サルトル『嘔吐・壁』の悪縁のせいで生まれる。その名も『はてしなく壁に嘔吐する物語』。うげー。


 これを読んだ当時小学四年生の博も「朝も早うから、えずきそうになった。子供だてらに嘔吐などというしち難しい熟語を知っていたのが災いして、阿保には効かない文字感染型の吐き気を催した」みたいであるし、幻書を押さえた祖父、與次郎も「こらァ特にひどいわ。読み終わるころには尻の穴まで口から出とるな」と言っている。


 「幻書」の種類にはいくつかあって、全く意味不明なもの、過去を暴くもの、未来のことが書いてある予言書めいたもの。様々であるが、ここでヒューチャ―されるのは予言書としての「幻書」だ。


 しかし、なんて素敵な設定なのだろう。本がいつの間にか増えて知らん顔して本棚に収まっている、と考えたくなる読書家の諸兄は多いのではないだろうか。「タイトル勝ちだ」なんて感想を漏らしている人もいるくらいである。


 この設定、つまり、雄本雌本が存在し、全く見たことのない新しい本が生まれる。親に書かれていることをちょっとずつ受け継いで。という設定。これは、本も家族を作る、ということである。そして、ここで描かれる群像劇も、家族(=一族)をめぐる物語なのである。だから、祖父母の與次郎とミキのなれそめから、おしどり夫婦な様子、その子どもたちとの温かな関わり。與次郎とミキの仲睦まじさは、もう最高である。じじいとばばあなんだけどね。


 そして、それは、その代だけにとどまらない。この本は土井博が息子・恵太郎へ向けた深井家と幻書をめぐる手記という体裁で書かれている。そう、この本は博の恵太郎への愛の形なのだ。そして同時に、博の奥さんへも。代をまたぎながら、家族の愛が育まれ、ほっこりとあったかくなるような、そんな話。


「いやあ、子供欲しいねえ」
「まだ昼の二時ですけど……。って言うか、あの絵ェみて思うことか?」と言ってお母さんは私の二の腕を小突き、すごく笑ってた。
「いやいや、実はこれには長い長い長い長い話があんねんなァ」

「どんな話?」

 私は微笑むだけでそれには答えず、くるりと振りむき、今そこにいる君を見つめ、二人だけの秘密をそっと囁こう。

「ま、こんな話だわ。恵太郎」

――460ページより


 このように締められるこの物語がとてつもなく好きだ。こうだから好きだ、と説明したくないほど好きだ。ほとばしる家族の愛の形がここには表れていると思う。そして、それを僕たちはおすそ分けしてもらえる。この本を読むことによって。


 さて、最後の謎は、『本にだって雄と雌があります』は「幻書」なのかどうか、であろう。


 はっきりとした結論はまだ出ていないので、何とも言えないが、「幻書」でもいい、という立場に立っている。予言書としての側面もある「幻書」。博は作中でその「幻書」にあるおそろしさを抱くものの、乗り越えていく。書物である限り「幻書」も人間精神からは逃れられないと。


 本書が「幻書」であるかどうかの謎が提示されることによって、この物語は円になる。直線の物語ではなく、繰り返す円環の物語になる。家族という円(=縁?)を、本も家族を作るという設定を通して描いた、そんな風に僕は読みたい。


 そして僕も、ある家族、一族の一員である。深井家の人びととおなじように。だから。


 自分よ。誕生日おめでとう。

0コメント

  • 1000 / 1000