矢口祐人著『奇妙なアメリカ 神と正義のミュージアム』感想

 最近アメリカに興味がありまして。宮内悠介『アメリカ最後の実験』とか読んだし、伊勢志摩サミットのついでにアメリカ大統領のバラク・オバマが広島を訪問しまして。日本にとって歴史的な日なんじゃないかな。2016年5月27日。後世の日本史の教科書に記載されてもおかしくないと思います。


 そんなこんなでアメリカって国について。考えるきっかけにと思ってふと目についた『奇妙なアメリカ 神と正義のミュージアム』を購入してきました。以下、惹句です。


博物館から見える「奇妙なアメリカ」
アメリカ人はなぜ「進化論」を否定し、「核兵器」を賞賛するのか。「真珠湾」と「9.11」はいかに語られているのか。どうして田舎町に巨大な「成金美術館」が作られ、首都ワシントンに凶悪犯が集う「犯罪博物館」が作られたのか。8つの奇妙なミュージアムを東大教授が徹底調査、「神」と「正義」をめぐる超大国の複雑な葛藤を浮き彫りにする。異色のアメリカ論。


 第一章「進化論を「科学的に」否定する」ではカルフォルニア州サンディエゴにある「創造と歴史のミュージアム(Creation and Earth History Museum)」について取り上げ、アメリカ人の40%が信じている(!)という「創造論」とそれを取り上げるミュージアムの影響(力)について考察する。


 「創造論」とは人間の由来を「旧約聖書の最初の書、『創世記』に記されている」通りに理解するものである。すなわち、「聖書の言葉はすべて絶対的に正しく、誤りは一切ないと考えるキリスト教原理主義者にとって、四六億年もまえに地球が誕生し、長大な時間のなかで生物が進化してきたという科学の知見は到底受け入れられない暴論」と「創造論」の立場に立つ人は「進化論」を断罪するのだ。


 このミュージアムではひたすらに創造論を「科学的に」説明し、進化論を「科学的に」否定している。そしてすべての終着点は「主が作りたもうた」である。「これほど複雑な組織は偶然の産物ではあり得ない。人間とはまったく別の超自然的な存在が設計しているとしか考えられないとするのである」。


 「正しさ」とは何か。「正しさ」の危うさを突きつけているミュージアムの一つであると結んでいる。


 第二章「「核のボタンを押してみよう!」」ではネバダ州ラスベガスの「全米原子力実験ミュージアム(National Atomic Testing Museum)」を取り上げ、アメリカ人が考える「核兵器」について考察する。


 はっきり言って「核は悪」と刷り込みが行われている日本人の感性からすると、このミュージアムは気色悪い。実際に核発射ボタン(のおもちゃ)が体験として置かれ、押すと画面内の砂漠が爆発し「セダン・クレーター」が作られる。その様子を子どもたちが見てきゃっきゃしてるというのだから、恐い。ハリウッド映画見てても大統領が核発射ボタンを押すのをためらう姿は数多く見てきたので、アメリカも核は危険というのが一般認識だと思っていました。


 このミュージアムで行われているのは積極的な核兵器開発ないしは使用を正当化することだ。


 核兵器は戦争を終わらせ、危険ではあるがその危険はアメリカの強大な科学力によってすべてコントロールされていたと紹介される。


 アメリカの力を信じているアメリカ人だからこそこのミュージアムは多くの人に共感される。だから核兵器を礼賛する人も、核兵器の廃絶を目指す人も対立を起こすことはないのである、と結ばれている。


 第三章「田舎町の巨大美術館は「成金趣味」か」ではアーカンソー州ベントンビルの「クリスタル・ブリッジズ・ミュージアム(Crystal Bridges Museum of American Art)」を取り上げ、アメリカの富と美術について考察する。


 アメリカの中でもドがつく田舎、アーカンソー州ベントンビルに建てられた「クリスタル・ブリッジズ・ミュージアム」。実はベントンビルは、世界的企業「ウォルマート」のおひざ元であり、それを築いたウォルトン一族の一人、アリス・ウォルトンが「アメリカの心臓部にアメリカ人の芸術作品を集めたミュージアムを」と設立されたのがはじめ。


 その金にもの言わせて美術品をかっさらっていくそのスタイルは多くのアメリカ人に不興を買ったものの、そのスタイルそのものがミュージアムの成り立ちそのものと変わらないと指摘する。


 ミュージアムの存在意義とは何か、という問いが突きつけられているとまとめられている。


 第四章「アメリカ人が考える「罪と罰」」ではワシントンDCの「犯罪と罰のミュージアム(National Museum of Crime and Punishment)」を取り上げ、アメリカ人に犯罪がどのように消化されているのかを考察する。


 犯罪はなぜ「面白い」のか。それを問いの軸に語られていく。


 数多くの展示物は実際の犯罪者の顔写真やその犯罪者がつかっていた道具なのだけれども、それらは「犯罪者」というレッテルが貼られていなければ、私たちとそんなに変わらない。このミュージアムでは犯罪者を遠い普通の人からは考えられないような異常者のように扱うけれども、ふと気づくと私自身も使っていたものだ。その「異常」が私たちの「日常」のすぐそばにあるのだ、ということが、意図せず提示されていることがこの「ミュージアム」の魅力なのだと語られる。


 そしてそこには、犯罪そのものが起こる理由が言及されない。ただ「「正常」な社会の構成員が境界線の向こうにある「異常」な世界に対して半ば無意識的に抱く、倒錯した憧れともいうべき感情を刺激している」のみである。ただ犯罪がエンターテインメントになっているのだ、と結ばれる。


 折り返して第五章「日系人が「アメリカ人」になるとき」ではカリフォルニア州ロサンゼルスにある「全米日系アメリカ人ミュージアム(Japanese American National Museum)を取り上げ、アメリカ文化とマイノリティについて考察する。


 他の移民と比べてミックスとなっている日系アメリカ人。そんな日系人に「コミュニティ」を提供するのがこのミュージアムの意義であるという。「コミュニティ」とは、このミュージアムによると「あなたがが単に居住している所」ではなく「あなたが誰であるか」という問いそのものであることが示される。


 移動(日本からアメリカ、収容所、そして復帰)を通して「日本人」から「アメリカ人」となる過程がミュージアムの提示するストーリーだが、そのような経験をした日系人は今、少ない。このような状況下、日系人がアメリカの「正義」と「民主主義」を守ってきたとミュージアムは日系人をつなぐ存在になりうると説く。


 第六章「ハリケーンは「天災」か「人災」か」ではルイジアナ州ニューオリンズの「ルイジアナ州立ミュージアム(Louisiana State Museum)」を取り上げ、巨大な自然災害がどのようにアメリカに記憶されているかを考察する。


 アメリカを襲った巨大ハリケーン「カトリーナ」。その空撮は記憶に新しい。カトリーナの混乱は風雨が過ぎた後に起きた。フクシマも同じだった。すなわち「天災」というより「人災」なのだ。


 ここから見えるのはアメリカの暗部であると、筆者は述べる。欠陥だらけの堤防、衛生管理の行き届いていない避難所、略奪、環境破壊。さらにそれらを悪くしていったのは人種問題だった。取り残されたのはほとんどが貧しい黒人。中間層以上の白人たちは警報が鳴った時点でニューオリンズを脱出していた。


 災害を展示する。そこには数多くの「体験」があるけれども、それを筆者は「悲劇のカリカチュア(茶番)になりかねない」と切り捨てる。「来館者と被害者の距離を埋めるどころか、逆に大きくしてしまう危険すらあるだろう」。


 カトリーナの被害分析は的を得ており、最後のクライマックスは郷土愛を表明するニューオリンズ市民のビデオが流される。いろいろな人種がそのビデオには登場し、皆で復興していこうと決意が示される。しかし、人種による問題がまったく提起されていない。「最も被害を受けた、最も弱い層の人びと」の「記憶と存在を周縁化」してしまっているのだと結ばれる。


 第七章「九・一一」はいかに記憶されるべきか」ではニューヨーク州ニューヨークの「ナショナル・九・一一メモリアル(National September 11 Memorial)」を取り上げる。本書の中で一番力が入っている章だと言えるのではないか。

 

 いまや歴史の転換点とされる「九・一一」。これ以後は終わりのない戦争の時代となった。その事件を、どのようにアメリカは記憶するのか。


 マイケル・アラドの「不在の反映」がメモリアルとして採用され、それは非常に抽象度の高いメモリアルとなった。また、「意味のある隣接」など「九・一一」で命を落とした人たちを最大限反映されたものとなっている。


 しかし、ナショナリズムを感じるこのメモリアルに居心地の悪さを感じる人もいるだろう。さらに、「九・一一」で命を落とした人たちを全員彫られているわけではない。ハイジャック犯の19人にはこれっぽっちも言及されていない。


 そもそも、抽象度が高いからこそ、「多数の人びとの「不在」を適切に「反映」することなど最初から不可能である」。新たな意味が生まれ、固定的な意味はそこにはない。だから、ここは「意味の「不在の反映」を示すメモリアル」であると結ぶ。


 最後の第八章「真珠湾に浮かぶ「正義」と「寛容」」ではハワイ州ホノルルの「戦艦アリゾナ号メモリアル(USS Arizona Memorial)」を取り上げる。


 第二次世界大戦における真珠湾攻撃のアメリカにとっての意味を論じ、第二次世界大戦がアメリカには「良い戦争」であったことを示す。しかし、その真珠湾攻撃で敵だった日本についての社会背景がしっかりとミュージアムのストーリーで示されていることこそが、このミュージアムの特異な点だと、筆者は述べる。


 そこにこそ、希望がある。「多文化主義的感性を生み出し、従来の展示内容そのものを大きく変容させてきた」このミュージアムの姿は、愛国的な国家観に基づいた保守的な展示も、変わっていくことを示し、さらに、「その過程で生み出される言説の矛盾を考えることの重要性も明らかにしている」と結ぶ。


 アメリカという国は極端である。思想の振れ幅や富裕層と貧困層の格差、そして差別。しかし、それが一つの国としてまとまっているのは(外から見るとまとまって見えないけれども)ひとえにアメリカという国に対する信奉である。


 天下の覇者としてのアメリカ。強い国としてのアメリカ。世界を牽引するアメリカ。強大な科学力を擁するアメリカ。アメリカはかくあるべきだという思想がアメリカ人には通底している。


 その大きな尺度が、すべての矛盾を内包しうる。そんな理解でいいだろうか。


 それを念頭に置いて考えたとき、オバマ政権は諸外国に妥協しすぎた。今回の広島訪問も、核廃絶の宣言も。ほかにもいろいろあるだろう。私たち(ほぼ)アメリカの属国からすれば意義深いけれども、当のアメリカ本土の人間からすれば、鼻持ちならないに違いない。


 そこで「強いアメリカを取り戻す」と強烈な発言を繰り返すトランプ氏は、今のアメリカ人のニーズに非常にマッチしていると言えるのではないだろうか。


 人種の坩堝、人種のサラダボールと例えられるように数多くの移民を受け入れながら、それでもアメリカというその思想は外部を排除する。アメリカこそがナンバーワン。そこにも奇妙なねじれがある気がする。


 アメリカ人のアメリカへの信頼、信奉は非常に強力であることが知れた。


 アメリカ人は面白い。これからも考えていきたい。


 宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』に収録されている「ロワーサイドの幽霊たち」も第七章とともにもう一度読み直したくなってきました。

宮内悠介『アメリカ最後の実験』の感想は、こちらから。

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