宮内悠介作『彼女がエスパーだったころ』感想

 宮内氏の新作が立て続けに出版されて僕はとてもうれしい。欲を言うなら、サインが欲しいです。とーきょーいきてー。


 以下、惹句と表題作の冒頭引用ですー。


進化を、科学を、未来を――人間を疑え!
百匹目の猿、エスパー、オーギトミー、代替医療……人類の叡智=科学では捉えきれない「超常現象」を通して、人間は「再発見」された――。
デビューから二作連続で直木賞候補に挙がった新進気鋭作家の、SFの枠を超えたエンターテイメント短編集。


 超能力を現代的にアップデートした人物は誰かと問われれば、いまや、多くが及川千晴の名を挙げるのではないだろうか。ところが彼女の来しかたとなると、これまた多くが首を傾げることになる。何しろインタビューその他においては、いちいちもっともらしい、しかし少しずつ食い違った回答がなされるため、真面目に耳を傾けるとこちらが翻弄される。これが虚言癖の類いによるものであったか、あるいは謎を醸し出そうとする彼女なりのブランドマネージメントがあったのか、はたまた単に忘れっぽかったのかは不明である。


 人間を疑え!!


 一人のジャーナリストの視点から紡がれる、疑似科学とオカルトと信仰の話、珠玉の六篇。


 現代の日本、無神論(すなわち「私は神を信じていない」と主張する)を名乗る人が多い中、日本人は、信仰を捨ててしまったのか。そんなことはないだろう。”信仰”という大仰な言葉を使っているから抵抗があるだけ。その対象が神ではなく、別のものになった。それだけであり、人間は何かに縋っていないと生きていけない存在っていうことなのかもしれません。


 そんな僕の信仰の対象は”””睡眠”””です。


 さてこの本、すべての短編が紡がれた後、一番最後に『銀河鉄道の夜』の一節が引用されている。


 けれどもしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学とおなじやうになる。
――『銀河鉄道の夜』宮沢賢治(第三次稿より、第四次稿にて削除)


 引用されている通り、『銀河鉄道の夜』の現在売られている原稿からは削除されている一節。今、『銀河鉄道の夜』を書店で買ってもこの一節はない(はず)。


 この「信仰も化学とおなじやう」という言葉。宮沢賢治はこのことに言及することを避けたわけだ。


 そして、「信仰も化学とおなじやう」、これに真っ向から立ち向かったのが本書、『彼女がエスパーだったころ』であるだらう。信仰と科学が交錯する点から浮かび上がってくるのは、剥き出しの人間の姿である。


 一つひとつの短編の密度が高い。一篇読むたびにため息をついていた。疲れる読書だったけれど、よい疲労感。何が疲れたのか考えてみると、人間ひいては僕自身の本性を突きつけられていたからではないか。


 人一人を助けるという行為は、理屈抜きに面白い。

――「彼女がエスパーだったころ」より


 この言葉を突きつけられた時、呼吸ができなくなった。


 まさしく、自分がその通りだったからである。そいつのために動いた様々なこと、その時はぶつくさ言いながらも面白かったらこそ、たくさんの教授に相談したし、とことん話し合ったし、市役所にも行った。そいつのことは結局、僕の立場から言う、「助ける」ということはできなかったけれど(そいつの信仰に傾倒していった)、あの期間は、助ける行為をしていたあの期間は、とても面白かった。


 人を友を、今助けているんだというあの自己陶酔。何物にも代えがたい。


 今、僕が助けようとして助けられなかったそいつも、誰かを助けるという甘美な快楽に身を委ねていることだろう。


 自分が弱っているときほど、何かに頼らずにはいられない。弱っているときというのは、それを何とかしたいと思うのは普通の心理だ。そして、医者が信じられない、化学薬品はいらない、などの個人的な思いが複雑に重なりあった時、表舞台に立つのが、疑似科学だ。


 医者や化学薬品こそ、人類の叡智=科学の結晶であるのに。


 水素水やコラーゲン、レメディ、サプリメントなどそれっぽいものから、太陽光に当てると水が良いものに変化するとのたまっているプルーボトルまで、目を見開いて見れば、そこら中に疑似科学は溢れかえっている。しかし、それらを頭ごなしに否定するのは違うと思う。


 そこには人の愚かさとどうしようもなさと、そして愛しさが詰まっているのだ。


 そして自覚するべきだ。僕は愚かなのだと。


 作中に登場する千晴という女性。スプーン曲げができる彼女は作中でこんなことを言う。

「人一人を助けるのに、理屈なんていらない」

――「彼女がエスパーだったころ」より

「自分で自分の舵を取れない人は、いつだって、何度だって舵から手を離すよ。そして、どんなことにも手を染めようとする。少なくとも、わたしはそう思うな」
(中略)
「でも、逆に言えば――」

 千晴は静かにつづけた。

「何度だって治療はやり直せる。つまりは、こういうこと。わたしたちは生まれついて、自分以外の何者かに委ねる能力を持っているってこと」

――「佛点」より


 愚かさと愛しさは表裏一体だ。


 ここでの感想では表題作の「彼女がエスパーだったころ」と、最後に収録されている「佛点」しか扱えなかったけれど、僕が好きなのは「ムイシュキンの脳髄」と「薄ければ薄いほど」の二篇だ。もう二つの「百匹目の火神」と「水神計画」も脳みそガツンと揺さぶるパワーを秘めている。パワーというか、血が出ないほどの切れ味です。


 めちゃくちゃおススメです。


 表紙もめちゃくちゃかっこいいし。


 さあ、進化を、科学を、未来を、人間を疑いなさい!!

2コメント

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  • MS-06F KAZUⅡ

    2016.07.14 15:58

    @ふみふみさん、コメントありがとうございます。 野呂の言う通り、「薄ければ薄いほど、霊性が高まっていく」から、なのかもしれませんね。人は何かにすがっているという事実を認めたくないながらも、すがらなくては生きていけないことを自覚していて、だからこそ、「薄い」ものにすがりたくなるのかも、、、と、そんなことをコメントを読んで思いました。
  • ふみ

    2016.07.14 09:04

    初めまして。 自分も宮内さんの作品が好きです。『ヨハネスブルグの天使たち』の外国人は外側から壊れていきそうなのに、日本人が内側から壊れていく対比にゾワッとしてそこから追いかけてます。本作では『薄ければ薄いほど』が好きですね。ホスピスは緩慢な自殺か。当事者ならば絶対にNOというであろう、けれどなんともいえない曖昧な問いかけに刺激されました。すがりたくなるものはどうしてこんなに薄いのか。