見てきました。
学年新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートから絶賛され、自分の画力に絶対の自信を持つ藤野だったが、ある日の学年新聞に初めて掲載された不登校の同級生・京本の4コマ漫画を目にし、その画力の高さに驚愕する。以来、脇目も振らず、ひたすら漫画を描き続けた藤野だったが、一向に縮まらない京本との画力差に打ちひしがれ、漫画を描くことを諦めてしまう。 しかし、小学校卒業の日、教師に頼まれて京本に卒業証書を届けに行った藤野は、そこで初めて対面した京本から「ずっとファンだった」と告げられる。 漫画を描くことを諦めるきっかけとなった京本と、今度は一緒に漫画を描き始めた藤野。二人の少女をつないだのは、漫画へのひたむきな思いだった。しかしある日、すべてを打ち砕く事件が起きる…。
――「劇場アニメ「ルックバック」」公式サイト「あらすじ」より
藤本タツキの新作がジャンプ+で無料で読める、という噂はTwitterのタイムラインを駆け巡っており、何人かの(勝手にぼくが)信頼を置いているアカウントが0時になった瞬間に「ルックバック」のリンクをタイムラインに流し出し、その勢いに押される形でぼくも読んだ。
それが3年前。劇場公開されるということで見に行きました。タイムラインがお祭り騒ぎになってこぞっていろんな人が「感想」を乱発し、そんな語りたがりをぼんやり見ていたぼくは少し辟易としていたので、距離を取っていたのだが……。「ルックバック」はおしゃべりをさせたくなる力が働いているように思います。
漫画はこちらから無料で読めます。
「look back」。「ふりかえって」や「後ろを見て」など、さまざまな訳語が文脈から解き放たれているがゆえに考えられる、し、そのどの訳も作品としての「ルックバック」には込められているが、ここでは「back」を「背中」と見たい。
記事冒頭に置いた画像は映画公式サイトの冒頭に表示されるもので(こういう画像のことをなんていうんですか? 主題歌、じゃなくて主題絵?)、漫画表紙とも共通しているのだが、主人公・藤野の背中が描かれている。映画の画像は机の上に鏡が置かれ、マンガを描いている藤野の顔が見える形になっているのが個人的には気になるが、漫画版表紙には鏡はなく、藤野がどんな表情でマンガを描いているのか、ぼくたちにはわからない。
背中しか見ることのできないぼくたちは藤野に拒絶されている。
藤野が京本の4コマを見た直後、「4年生で私より絵ウマい奴がいるなんてっ 絶っっ対に許せない!」と叫び検索サイトに出た「とにかく描け!バカ!」を信条に絵を描き続けるが、その際、画面には藤野の背中が中心に据えられ、藤野の周囲だけが切り替わっていく。それは藤野が友達を、先生を、家族を拒絶しマンガだけに打ち込む姿だ。
しかし、その拒絶の成果としてのマンガが、引きこもりとして世界を拒絶していた京本に、風穴を開け、外(=世界)に身を開かせる。
……部屋から出て良かった
ホントは今日外に遊びに行くのが怖かったの…
私…人が怖くなって学校に行けなくなっちゃったから……
でも今日は凄く凄く楽しかった
家で暇で…やる事なくて絵を描いてたけど…
描いててよかったって思えた
藤野ちゃん 部屋から出してくれてありがとう
拒絶としての背中が憧れとしての背中に変わる。拒絶されつつ手を伸ばしたいものとしての背中。
「誰にわかってもらえなくても、この人にだけわかってもらえればいいんだ」的な文脈で受け取ることも可能だし、それはとても美しいと思うが、藤野と京本の関係性においてあまり、そういったものは実はあまり読み取れないのではないか。藤野と京本が顔を向け合っている場面は実は驚くほど少ない。藤野が想起する京本との思い出はそのほとんどが同じ方向を向いていたり、向き合ったりしているが、それはあくまで「藤野が想起している思い出」である。そうでなければ、京本が「美術大学に行きたい」と打ち明け、藤野と京本が袂を分かつところくらいではないか。
2人でマンガを描いている場面のショットでは、2人の視線は交差しない。
藤野は「もっとよいアシスタントを」と貧乏ゆすりしながら京本の存在を求めている。藤野は京本を上下関係の中に落とし込み、「自分の背中を追い続ける人」に固定化しようとしている。でもそれは、藤野自体が京本の画力には足元にも及ばないことを十分すぎるくらい自覚しているからに違いない。
隣の男子が思わずつぶやいた「京本の絵と並ぶと 藤野の絵ってフツーだなぁ!」、佳作にかがやいた第1作の選者コメント「話やキャラクターに若さは感じる」「特に背景のレベルが高かったです!」、京本自身の「でもっ! もっと絵… 上手くなりたいもん…」。痛いくらいに藤野は京本の足元にも及ばないことをわかっていたはずである。
ここで、京本がアーティストとして大成し、藤野と久方ぶりの邂逅の際(そういえば京本が死ぬまで連絡すら取りあっていなさそうであった)、自身のある種のヘタクソさを受け入れたうえで京本のウマさを認めることができるという筋書きであれば、藤野が落とし込んだ京本との歪な関係性を改めて対等なものにできたに違いない。しかし、そのような未来は訪れようもない。それを許さなかったところにこの漫画の現実への透徹した観察があるのではないか。
すこしこじれてしまった当人同士の関係は、通常時間が経つにつれてある部分がうやむやになりながらも解決して”しまう”。それでいい。それでいいがしかし、死によって時間が止まってしまう、ということが現実にはありうる。
葬式の後、京本宅を訪れる藤野。藤野が憧れつつも目を背け続け、憧れられるよう固定化した京本の「背中」を振り返り(「look back」)ながら藤野は見た。その京本の着ていた半纏の背中に「藤野歩」という自身のサイン。藤野が憧れていた背中には自分がいた。
もう、どんなに京本の才能に憧れようとも、憧れられる自分を降りることができない。自身が固定化した京本との関係性を、無差別な死が決定的にしてしまった。フィクションには何もできない。世の中を変えることも出来ないし、人間を救うこともできない(「描いても何も役に立たないのに…」)。しかし、描き続けるしかない。なぜなら、自分は「あの」京本に憧れられていた人間なのだから。他人を拒絶しながら一心不乱に。それが、京本を失望させない唯一の方法だから。
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