クルマ自体は好きなのだが、クルマの運転は苦手である。バケツ一杯のミニカーをごっこ遊びの登場人物に見立てて遊んでいたガキンチョのぼくは、自動車教習所ではじめてハンドルを握ったとき、上手にハンドルを回すことができなかった。力が入りすぎていたからである。クラッチやギアの操作もおぼつかず、「ゲーセンが近いから」と決めた群馬の国道沿いの教習所で同部屋の友達とケンカし、挙句の果てに近くにあるはずのゲーセンは潰れていてと散々だった。
それでも、おなじように合宿で免許を取りに来ていた、来年度から社会人になる方々の団体となぜか夜に行き会い、教習所の道路で5、6人で寝そべって星を眺めたのはいい思い出ではある。そんなことが本当にあったのかも、すでに定かではない。
世界的大ヒットのドライビングゲーム「グランツーリスモ」のプレイに夢中なヤン。父親からは「レーサーにでもなるつもりか、現実を見ろ」とあきれられる日々。そんなヤンにビッグチャンスが訪れる。世界中から集められた「グランツーリスモ」のトッププレイヤーたちを、本物の国際カーレースに出場するプロレーサーとして育成するため、競い合わせて選抜するプログラム「GTアカデミー」だ。プレイヤーの並外れた才能と可能性を信じて「GTアカデミー」を立ち上げたひとりの男(オーランド・ブルーム)と、ゲーマーなんかが通用する甘い世界ではないと思いながらも指導を引き受ける元レーサー(デヴィッド・ハーバー)、そしてバーチャルなゲームの世界では百戦錬磨のトッププレイヤーたちがそこに集結。彼らが直面する、想像を絶するトレーニングやアクシデントの数々。不可能な夢へ向かって、それぞれの希望や友情、そして葛藤と挫折が交錯する中で、いよいよ運命のデビュー戦の日を迎える───。
――映画「グランツーリスモ」公式サイトより
監督はニール・ブロムカンプ。「第9地区」で一世を風靡したのちあんまり目立っていないが、「第9地区」に魂撃ち抜かれた人間としては「え、ブロムカンプがゲームの映画化を?」みたいな感じで?が飛びまくった。
巨大空母や異星人の存在などのSF的意匠、そのSF的意匠が社会のなにがしかの比喩として成立し、見る者を揺さぶる…… SFの一つのお手本かのような映画にぼくは撃ち抜かれていた。(いま見返してみると浅野いにお『デットデットデーモンズデデデデデストラクション』は「第9地区」の同工異曲であった。『デデデデ』、おもろいけど「第9地区」の射程からは抜け出せていないのじゃないか、と思うが、読み返してみないとわからない。)
さて、「グランツーリスモ」である。「グランツーリスモ」は「シュミレーター」であって「ゲーム」ではない、らしい。よりリアルに近づけたクルマを現実の価格とは比べ物にならないくらいお安い値段で運転ができる。しかも、世界中のサーキットを走れる。ぼくはプレステのコントローラでしか運転できないけど、ハンドルやクラッチ、アクセルブレーキを用意すれば、もうほとんど現実のクルマと変わらない、らしい。らしい、というのはぼくが200km/h越えの世界を体験したことがないからである。
映画「グランツーリスモ」はこの”仮想現実上のクルマの運転”と”現実上のクルマの運転”という対比が大きな軸だ。前者から後者への移行は「スムーズ」(「スムーズが一番早い」)とは限らない、と日常クルマを運転している人間であればわかる。しかし、その移行をモータースポーツの世界でやってのけよう、というのが「GTアカデミー」という試みのチャレンジングでエキサイティングな所だし、この映画もそれが目指されているに違いない。
その移行のむずかしさと世間的な評価は鬼教官(あらすじだと「ゲーマーなんかが通用する甘い世界ではないと思いながらも指導を引き受ける元レーサー」)の言葉の端々から視聴者は感じていく。いつの間にか(という表現はズルくて、教官が気づけなかったブレーキの不具合をヤンが気づいていたことをきっかけとして)ゲーマーたちの才能に気づき、「お前は特別だ」とまで言わしめるのだが、”仮想現実”と”現実”の移行が丁寧に描けていたか、というと疑問符である。
そもそも、この映画は”仮想現実”から”現実”の移行など描こうとしていないのかもしれない。どちらかというと、”現実”の”仮想現実”化を目指しているように思えるからだ。
ゲーム「グランツーリスモ7」をプレイしていれば分かる「ファン」という選択音が主人公ヤンの駆るクルマに寄り添うレースで頻出するのをはじめとして、「グランツーリスモ7」プレイ中にコースに反映される走行ラインを示す線がヤンの”現実”のレースにおいても登場する。ほかにも、「グランツーリスモ7」のプレイ画面と同様の画角でヤンの”現実”の車体を写している場面も多い。以下の画像は「グランツーリスモ7」のプレイ画面だが、この画面そっくりに映画の画作りを行っていた。
さらに気になったのは主人公ヤンのライバルに位置づけられている金持ちのボンボンだ。金ピカのランボルギーニを駆る彼は、かなりダーティでゲームの世界から来たルーキーが気に入らず、わざとヤンに車体をぶつけ、ヤンをクラッシュさせる。NetflexのF1ドキュメンタリー「F1:栄光のグランプリ」を見ていると、ほんの少しの(に画面越しでは見える)車体同士の接触が大事故につながる世界であることがよくわかる。そんな命のやり取りを強要されるレース中に、わざと車体をぶつけるというダーティさは、むしろ”仮想現実”性(つまりは”ゲーム”性)を助長しているだろう。なぜなら、ゲームではそのようなダーティさは日常茶飯だからだ。前方車両を抜くためにわざと突っ込む、後方車両に追い抜かれないために無理やりブロックする。「グランツーリスモ7」のオンラインにもぐれば(ダーティなプレイはレートを下げられるが)そのような害悪プレイヤーは多く存在する。し、なぜそれを遂行できるかと言えば、所詮”仮想現実”であって、命のやり取りはそこにはないからだ。(今youtubeで鈴鹿サーキットでのGTグランプリを視聴しながら書いているが、接触は一切ない。)
だから、ヤンの参戦した”現実”のレースはそもそもから”仮想現実”でしかなかった、ということである。映画自体が非常に予定調和的であるのも納得である。だって、”現実”だって”仮想現実”でしかないのだから、勝てるに決まっているでしょう。ヤンは”仮想現実”のレースのチャンピオンなんだから。
急加速・急ブレーキによって身体にかかるG、路面の微妙な状況によって身体に伝わる振動。そういった身体への働きかけがあるからこそドライバーは危機感を感じるのだし、クルマのトータルな状況はドライバーが一番よくわかるはずなのだ。ピットでは数値化された情報しかない。と考えるとニュルブルクリンクの「飛行場」でかっとんだヤンは”現実”のレースを走っていたとはやはり考えづらいのではないか。車体の浮く感覚はその区間を通る時に感じていなければ身体を持っているドライバーだとは思えない。
そのドライバーの身体性に真摯に向き合っていたのは映画「フォードvsフェラーリ」であったと思う。
ぼくたちは(つまりテレビ画面の前でモータースポーツゲームをしているぼくたちは)、この動画のフォード社社長と同じはずだ。大便を漏らすほどの恐怖。のっぴきならない速度の恐怖をしっかりと描いているからこそ、映画を観るぼくたちも手に汗を握り、ドライバーと一緒に命のやり取りをしているかのように錯覚できるのだ。
「フォードvsフェラーリ」と「グランツーリスモ」のレースシーンを見比べたとき、「フォードvsフェラーリ」の方が疾走感と気持ちよさと、そして恐怖を感じるのはぼくだけだろうか。ということはつまり、映画という”仮想現実”にしかなりえない舞台装置において、「フォードvsフェラーリ」は”現実”にほんのすこしだけ肉薄しているということだろうし、そしてそれは良い映画の条件だともぼくは思う。
ヤンの存在は”仮想現実”から”現実”へ移行を果たした人であり、その両者に間にある大きな懸隔を想像も及ばぬような体験を通して飛び越えたのだ。実際にヤンは「グランツーリスモ」にてカースタントを担当していたシーンもあるらしい。そのリアルな危険に映画は向き合えていたか。ぼくは首を傾げざるをえない。
「”現実”はすでに”仮想現実”と等価である、ということが示されているのだ」ということもできる。しかし序盤のヤンの「レース本番では臨機応変に。失敗したらリトライだ」というセリフが、終盤のヤンがル・マンレースでごぼう抜きするシーンにおいてリフレインされるが、「失敗したらリトライだ」の部分がカットされているのはダメではないか。”現実”での命のやり取りは「リトライ」ができない。当たり前である。そこを宙ぶらりんにしたまま、予定調和のアメリカンドリームのパッケージに押し込んでしまった本作品は真摯な作品ではないのだ、とぼくは思った。
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