コロナ復帰戦線。ネタバレあります。
A.S.122――
数多の企業が宇宙へ進出し、巨大な経済圏を構築する時代。
モビルスーツ産業最大手「ベネリットグループ」が運営する「アスティカシア高等専門学園」に、
辺境の地・水星から一人の少女が編入してきた。
名は、スレッタ・マーキュリー。
無垢なる胸に鮮紅の光を灯し、少女は一歩ずつ、新たな世界を歩んでいく。
――「機動戦士ガンダム 水星の魔女」公式HP「STORY」より
この倦怠感に立ち向かうためには書かねばならぬ。なにか、なにかを書かねばならぬ……
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」は女性が主人公ということ、そして久々に日曜5時にアニメ枠ということで話題だった。日曜5時にアニメを放送すること、それは一部のオタクが見るアニメじゃないということを意味している。それだけ人口に膾炙させるという製作陣の意志も感じるわけだし、そしてただのエンタメ作品にはしない、という表明が「プロローグ」から現れていた。
「プロローグ」では4歳(!?)を迎えるエリクト・サマヤが「ガンダム」に完全に適合する。この構図はいわば「ガンダム」シリーズの伝統に則った形であって(4歳というのは若すぎるが)、若者がその適合性ゆえに戦争に否応なく巻き込まれてしまうという話型は「ガンダム」の得意とするところでもあり、描きたいものの大きな1つだろう。しかし、今まで「ガンダム」シリーズが目を背けてきた問題も同時に「プロローグ」は提示した。死にゆく父親がエリクトに「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」を歌う……。そう、家族の問題である。
アムロ・レイもカミーユ・ビダンも家族のあり方はもともと壊れており、両親は戦禍に巻き込まれ死亡してしまうことによって家族の問題は不問に付されていた。「水星の魔女」では今までのシリーズが不問に付してきた「家族」をテーマに据えたことこそ、チャレンジであったと思うし、この作品を意義深いものにしたと思う。
「親ガチャ」「毒親」エトセトラ……。「教師」という神話が解体されたのとは遅れて、「親」という神話も解体され始めている現代。そこでは合理的な判断に基づく「子育て」がもてはやされて、少しでも「親」に理不尽さを強要されていようものならあっという間に「毒親」の烙印が押されクズとして認知されてしまう。当然、行き過ぎた理不尽は(つまり「虐待」と呼称できてしまうような理不尽は)看過するべきではないが、その目指される合理性に少しだけ違和感を抱いている。
「ほら、毒親の家に生まれた子供は高確率で毒親になる、というデータがあるじゃないですか? だからもうそこに関しては徹底的に、負の連鎖を断ち切ろうという強い覚悟を持って子育てをしているんですよ。それで私も、少しはそんな彼女の役に立てたらと思って、子供の発達心理や親子関係に関する本はひととおり読んできたつもりです。自慢するわけではないんですが、ざっと百冊は読んでいますよ、スーザン・フォワードも上野千鶴子も当然。だから私も子供が生まれてからお酒は極力飲まないようにしていますし、娘に対して自分の理想を押し付けたこともありません。あれをしなさいとか。これをしちゃいけないとか、何かを強制するような言い方を娘には絶対にしません。本音を言えば、たとえば娘が顔を出してYouTubeをやっていることなんかには反対ですよ。いくら賢いとはいえあの子もまだまだ子供、いつトラブルに巻き込まれるか、不用意な発言で炎上するかと、本当は夜も眠れないほど心配なんです。だからって禁止はしません、つねに彼女の自主性を尊重するようにしています。娘には親の顔色をうかがったりしないで、自由にやりたいことをのびのびやって、自分の人生を歩んでほしいですから。言うまでもないことですが、もちろん娘に手をあげたことだっていちどもないです。いちどもないですよ。親の暴力は子供の脳を委縮させ、認知機能にダメージを与えるので。そうですよね? だから娘が生まれてからは毎日必ず、スマートフォンに通知がくるように設定しているです、【今日も手をあげなかった?】って。古典的ですが、結局こういう単純な方法がいちばん確実で効果的ですから。」
――九段理江「Schoolgirl」(文藝春秋 2022年)より
「毒親」と呼ばれないための処方箋。「娘の顔色をうかが」う親に、不健全さを感じてしまう。この引用は誇張されているがたぶん、子育ての現場では日常の風景なりつつあっても不思議ではないだろう。
そもそも、「毒親」だろうが何親だろうが、親は親なのであり、そのくびきから解き放たれることはできないというのは、まあ良く考えなくても当たり前の話である。そしてその親にとっての「子」も同様であるのも間違いない。「親」と「子」は一蓮托生、家族という紐帯で一括りにされている。
東浩紀は「家族の概念」を「強制性」と「偶然性」、「拡張性」の3つの性質に特徴があると整理している(東『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン 2017年)。「たいていのひとは、生まれた瞬間に特定の家族に加入させられ」、「そこからの脱出はかなりむずかし」く(強制性)、「ある子どもが生まれることには、じつはなんの必然性もな」く、「みな親から見れば偶然」であり(偶然性)、そして「家族の輪郭は、性と生殖だけでなく、集住と財産だけでもなく、私的な情愛によっても決まる」(拡張性)。この整理は「家族」について考える時に有用な補助線になる。
プロスペラは悲劇の中にあるとはいえ、娘・エリクトの遺伝子情報から主人公・スレッタを生み出し、データになってしまったエリクトをこの世に物理的に呼び戻すための手段としてスレッタを使役していたのだから、これはなかなかに「毒親」である。では完全にスレッタに対してプロスペラは愛情を持っていなかったかというとそうではなく、本当に家族のように愛していたようであり、スレッタ自身もそんな「お母さん」プロスペラが大好きなのであった。親と子という関係はその「強制性」から「愛」と「憎」の対象となるのだろうと思う。(コロナで臥せる毎日、親の心配に僕は「愛」を感じたわけだが、その日見た悪夢は親に嫌なことをさせられている夢である。とんだ親不孝者だが、親への(または子への)「愛」は「憎」に裏打ちされていることを痛感したり)
「強制性」や「偶然性」からの自立を、ぼくたちは求めてきた。しかし、自立しきったと思い込んでいる「子」らの存在によって断罪される「親」たちが後を絶たない現状、その「強制性」や「偶然性」を忌避するのではなくむしろ積極的に引き受けなければならないのではなかろうか。家族のそうした「強制性」や「偶然性」こそが、「私」の最後に寄って立つ柱になるのだと思う。
当然、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』のような悲劇的な結末もあり得るだろう。そして現にそのような痛ましい事件はそこら中で起こっている。それでも、「じゃあ逃げればよかったじゃないか」と安易に言うことが、僕にはできない。「家族」という紐帯はそんなに単純なものではないだろう。し、その複雑さこそが「私」を「私」たらしめている。
プロスペラは実の娘ではない(初めはコマとして思っていただろう)スレッタに救われた。拡張された家族の一員であるスレッタの「お母さんの全てを肯定します」の言葉によって。もしかしたら久々に目にしたエリクトの容姿とスレッタの容姿が類似していた、という点によってプロスペラは救われているのかもしれないが、でも、スレッタの母への愛情がプロスペラの救済の引き金になったことは間違いない。それはスレッタ自身が「家族」の「強制性」や「偶然性」や「拡張性」を全て「呪い」と認識したうえで、それでも、「祝福」として引き受けたからこそできた芸当なのではないか。
それは、宇佐見りん「くるまの娘」の「かんこ」の選択にも似て。
「水星の魔女」のメインのガジェットである「GUND-ARM」も兵器に利用されて「呪い」と呼ばれた。しかし、宇宙進出を果たす「祝福」としての身体拡張システムでもあったのだ。「呪い」と「祝福」は「水星の魔女」の1つの大きなテーマだろう。「呪い」と「祝福」が明滅する。「家族」の「呪い」がヒューチャーされる今、(家族を大切にしよう、とかいうレベルではなくて)「家族」の「祝福」が言祝がれたこの作品が日曜5時に放映されたことを、高く評価したい。
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