伊藤計劃作『虐殺器官』感想 ママと赦しを求めて

 あけましておめでとう!今更!!!


 当然のようにネタバレあるのでご注意を。でも、ラストの展開を知ることによってカタルシスが消滅するような小説ではないので、その点はご安心を(何を?)


9・11以降の、”テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう……彼の目的とはいったいなにか?大量殺戮を引き起こす”虐殺器官”とは?ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化!


 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っ込んでいるのが見えた。

 まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。

 

 


 さて、某大国が国境に壁を作り、ディストピアみが増している昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。


「虐殺だと。われわれの平和への願いをそのような言葉で冒瀆するのか。これは政府と国民に対する卑劣なテロリズムとの戦いなのだ」

――59ページより

「……正当な武力の行使、か。暴力の正当性を裏付けるものとは、いったいなんだろうね。」
「より多くの人々に承認されているということではないでしょうか。」
「われわれの行為も、この国の多くの人々に承認されていた。皆が望んでやったことだ、あれは」

――91ページより

「われわれは大いなるインドの大地を汚すモスレムどもと戦っている聖戦の戦士だ。貴様ら拝金主義者と一緒にするな」

――294ページより


 無限とも思える逡巡ののち、虐殺の王(ロード・オブ・ジェノサイド)はこう答えた。 
「愛する人を守るためだ」

――368ページより

どこにあっても似たり寄ったり。どんな戦場でも、どんな悲惨でも、同じようなことを言う。コメディ番組みたいだ、とウィリアムズはぞっとするほど朗らかな声で笑った。繰り返しはギャグの基本だからな、と付け加える。

――295ページより

 

 ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。アメリカ以外のすべての国を救うために、歯を噛んで、同胞国民をホッブス的な混沌に突き落とすことにした。
 とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。ジョン・ポールがアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。

――396ページより


 繰り返されるギャグ、ツッコミがボケ始めるその瞬間。シェパード君の最後の大ボケ/大嘘はこうして完遂された。なにも、この指摘は新しくもなんともなく、様々なところで使われ、引用され、そして再解釈されている。でも、『虐殺器官』を語るにはこのことを参照しなければならないくらい大きなものなのである、、、「なんのこっちゃ」な人は以下のリンクをどうぞ。

 まあ、これが正解、というわけではないと思う。でも、説得力の強度が高い(高すぎる)ので、これを踏まえた上で、少し考えていきたい。


 ポイントは”なぜ大嘘をついてまで「死者の国」を現前させたのか”ということ。


 上記のリンクにもあるように、”大嘘”によって隠されたシェパードの本当にやりたかったことは夢に何度も出現した「死者の国」を表出させたかったってことでいいだろう。

 外、どこか遠くで、ミニミがフルオートで発砲される音がする。うるさいな、と思いながらぼくはソファでピザを食べる。
 けれど、ここ以外の場所は静かだろうな、と思うと、すこし気持ちがやわらいだ。

――396ページより


 「ここ以外の場所」は”嘘をついている”ことを前提とすると、「アメリカ以外のすべての国」にはならない。その場所は現実に現れた「死者の国」だ。すべての戦闘行為が終結した後の、頭蓋がザクロのように花ひらき、背中から撃たれた弾丸が体中をビリヤードして腸をぶちまけている、人間がただの肉としてしか存在していない世界。終末の世界。みんな死んでいる世界。


 なんで「気持ちがやわらい」でいるかは、シェパード君の「死者の国」の描写を読めばすぐにわかる。すこし引用すると、

 ここは死後の世界なの、とぼくは母さんに訊く。すると、母さんはゆっくりと首を振った。子供のころ、そうやってぼくの間違いを正したあのしぐさで。
「いいえ、ここはいつもの世界よ。あなたが、わたしたちが暮らしてきた世界。わたしたちの営みと、地続きになっているいつもの世界」
 そうなんだ、とぼくは言う。安心して涙がこぼれた。

――13ページより


 「死者の国」にいるシェパードはいつも「安心」している。安らぎを得ている。


 そして「死者の国」にはいつも特別な存在がいた。それは母親である。


 この事実に伊藤計劃のあるインタビューを補助線にすると、見えてくることがあるのではないだろうか。

「一人称で戦争を描く、主人公は成熟していない、成熟が不可能なテクノロジーがあるからである」というのは最初から決めていました。ある種のテクノロジーによって、戦場という、それこそ身も蓋もない圧倒的な現実のさなかに在ってもなお成熟することが封じられ、それをナイーブな一人称で描く、というコンセプトです。

――あとがき(引用元:オンラインSF誌「Anima Solaris」)より


 つまり、シェパード君は「成熟していない」。まだまだおこちゃまなのだ。母親、すなわちママを必要とする自立できていない子どもなのだと。


 「死者の国」を現実に表出させたのは、ひとえにママに会いたかったからではないか。ただのママではなく、「ぼく」を受け入れてくれるママに。いつも夢の中で間違いを訂正してくれ、こっちへいらっしゃいと言ってくれる、安心と安堵を与えてくれるそんなママに。


 この世界を「ホッブス的な混沌に突き落とすことにした」そのきっかけはシェパードが恐れていた母親に愛されていないのではないか、という想像が本物であったことに気付いたからであった。

 しかし、その視線が愛情だと証明してくれるはずの記録は、ソフトウェアが吐き出した、母の物語のどこにも残ってはいなかった。
 では、あの視線はいったいなんだったのか。
 作戦が終わって、ぼくはからっぽになったと思いこんでいたけれど、そこが真空ではなかった。真の空虚がぼくを圧倒した。
 そんな空虚にジョン・ポールのメモは実にぴったりと嵌った。もしくは、ジョン・ポールのメモのほうが、ぼくの空虚を見出したのかもしれない。

――394ページより


 そしてその証明である母親のログには、息子であるシェパード君ではなく、頭を打ちぬいて自殺した父親、つまりパパのことばかりであった。そう、シェパード君は母親の獲得競争に負けたのだ。死んでしまったパパに。そして、死んでしまったからこそシェパード君はパパに勝つことは不可能だった。


 ママの代わりになりそうだった、ぼくを赦してくれたルツィアも死に、自ら選び、行動するという「成熟」への第一歩も軍の思惑により打ち砕かれ、シェパード君は最後の最後まで大人になることができない。

そのすべてが遠い過去の出来事のように思い出された。あのとき覚えたはずの感情、あのとき得たはずの洞察。そのすべてがリアリティを失って、壁に隙間なく貼りつけられたスナップ写真のように、全体のディテールのごく一部へと還元されてゆく。

――384ページより


 「スターバックスの永遠も、ドミノピザの普遍性も、なく」したシェパード君は、ただいつも安らぎを得られていた夢へと引きこもるために虐殺の言葉を音楽のようにばらまいた。


 これは、ごくごく局所的に読めば、シェパードという大人になりきれなかった大人の、赦しと安心と愛してくれるママを求める退行の物語だ。

 映画化も2月3日に公開が決まって本当に一安心。いまからとても楽しみです。

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