映画「ハリー・ポッターと賢者の石」感想 公然の秘密としての魔法界

ネットフリックスで配信されていたので見てしまいました。以下感想。

ハリー・ポッターシリーズはぼくの年代の人たちからすると正当な評価を与えられないくらい人生と結びついた作品なのだろうと思います。ハリーとロンとハーマイオニーの可愛さたるや! 久々の再見で演者のかわいらしさや、「ぜ〜んぶちょうだい!」や「ウィンガーディアムレヴィオサ〜」、「耳くそ味じゃ!」などのハリポタ語録も耳につき、ああ、ぼくはこの映画をすげー見てたんだなあ、と思った次第。自分ちにDVDがあった記憶がないので、金曜ロードショーとかで流れるたんびに見てたんだと思います。


ガキンチョの頃はこの世ならざるものに目が行ってしまっていたわけだけど(魔法とか魔法生物とか)、この年になってみると大人たちの方に目が行ってしまうわけで……

クィディッチの先生、ホウキの乗り方をしっかり教えないままネビルに怪我させるのヤバすぎだし、最後ダンブルドア校長のグリフィンドールへの加点も公平性の観点からどうなのよ、という気もしないでもない。

ダーズリー家の皆さんも、ホントに嫌な大人たちだなと幼心に思った訳だけど、ある晩手紙1通と赤ん坊が家の玄関の前に置かれて、嫁の姉の子どもとはいえ、しっかり11歳まで育て上げたわけだから、なかなかできることではないなあと。


まあ、そんな細かい部分をあげつらってもしょーもないわけですが。


それより魔法界って実はあまり秘密になっていないんじゃないか、ってことの方が気になりました。マグル同士の子どもでもホグワーツへの入学通知が届いているし、当然マグルと魔法使いの混血の子どもへも入学通知が届いてる。ダーズリー家もペチュニアおばさんは魔法界を知っていて、それであの家族はハリーを絶対に魔法使いにしないと誓っているわけで、マグル界でも魔法界を知っている人は多くいるだろうことは推測できるわけです。


だけど、なぜ魔法界は「秘密」を守られているかといえば、それは(マグルであれ魔法使いであれ)人々の良識なのでしょう。


  君とクィレル先生との地下の出来事は極秘だ。
  ということは、当然学校中の者が知っている。


とはクィレル先生(ヴォルデモート)との対決に勝利した後ハリーにダンブルドア校長が言ったセリフだけど、まさに魔法界の存在も「極秘」だがそれゆえに世界中の人間が知っている、そんなものだったのだと思います。


ぼくが入学することになった大学は新1年生の歓迎会を一個上の先輩たちが企画をするのだけれど、その時「にせいち」(=偽一年生)として実は2年生が新1年生の中に紛れている、というドッキリがありました。これは別にぼくの行っていた学科だけではなく、大学全体で行われており何年も連綿と続いていたドッキリで、それくらいの規模ながら新1年生で「にせいち」をはじめから知っていた人はいなかったように思います。し、知っていても知らないふりをするという良識があったのだと。


ぼくが卒業して少ししてこの「にせいち」文化は失われたと聞きました。それはインターネットへの暴露文化の盛り上がりと軌を一にしているように思っています。宝釣りの屋台に大金を叩いて「本当にゲーム機に紐が繋がっているか確かめていいですか」とかいうyoutuberが流行ったり、インターネット上に「暴露」することを「世直し」とか銘打って最終的に国会議員になったりする世の中。サンタクロースは本当はいないよ、とガキンチョにわざわざ突きつける行為のどこに良識があるのだろうか、と感じざるを得ません。


魔法界という世界も、2023年では「秘密」ではいられないのではないか。


魔法界は執拗なまでに儀式と規則にこだわりのある世界です。魔法があるんだから色々便利にできそうなものを、無理やり時間のかかる方法をとっているような部分がある。組み分け帽子、フクロウ便、杖。しかし、その迂遠さこそが魔法界の(公然であれ)秘密を守るためのキーなのではないでしょうか。幾重にも張り巡らされた紆余曲折さが、めんどくささが、秘密と事実と嘘とをごっちゃにできる仕掛けとなるのだと思います。


多分、2023年は現実の裏返しとしての魔法界は存在しない。全部youtubeに正体を暴かれ、魔女狩りが行われ、そして魔法使いたちもiPhoneを使っていることでしょう。魔法使いにとっての一番恐ろしい存在は、ヴォルデモートでもグリンデンバルトでもなく、魔法使いが見下していたマグルに違いありません。


0コメント

  • 1000 / 1000