延期に延期を重ね、ついに公開になった映画「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」(以下、「閃光のハサウェイ」)。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の陰に追いやられている感も否めなくもないが、心待ちにしていた「ガンダムオタク」も多いだろうと思われる。かく言うぼくもそのうちの1人であるわけですが。初週は溶連菌で死んでいたので2週目に突撃してきた。以下、感想です。
「機動戦士ガンダムUC」は映画「逆襲のシャア」以後を時代設定とし、宇宙世紀(Universal Century)1年のセレモニーにおけるテロを物語の冒頭に据えている点で、宇宙世紀(Universal Century)を総括しようという思惑とともにスタートしたことは想像に難くない(当然「機動戦士ガンダムUC」の「UC」は「ユニコーン」の略称であるとともに「Universal Century」の略称であることは一目みれば感づくことである)。
そんな福井晴敏による「機動戦士ガンダムUC」は「ぼく(=福井晴敏=ガンダムオタク)のかんがえたさいきょうのガンダム」だと揶揄されることにもなるのだが、おそらく揶揄でも何でもなくまさしくその通りの作品だった。宇宙世紀が舞台のガンダムシリーズはアムロ・レイとシャア・アズナブルの確執をめぐる物語だとまとめることができようが(宇宙世紀100年代の「ガンダムF91」(宇宙世紀123年)と「Vガンダム」(宇宙世紀153年)は不問に付す)、「逆襲のシャア」が公開され、その確執が一応の決着(といえるかどうかは微妙なところではあるが)を見ている現在、決着を決着し直すというややこしいことが起こっているわけで、それはもういろいろと盛り込まないといけない。
フル・フロンタルというまさしくシャアの亡霊の登場させつつ、ミネバ・ザビというザビ家の末裔がシャア(の亡霊)を討つという一年戦争の構図をひっくり返すという刺激的なことをやってのけた「機動戦士ガンダムUC」だが、ひとまずの成功だと思っている。結末はびっくりするほど覚えていないが(本も読んでいるはずなのに)、それまでの過程は宇宙世紀の集大成であることは間違いなく、敵味方という区分を融解させるように自在に軽やかに動き回るバナージという新機軸の主人公を据えた「機動戦士ガンダムUC」はぼくの心に大きく爪痕を残している。
さて、そんな「機動戦士ガンダム」よりも後の時代を描くのが今回公開された「閃光のハサウェイ」である。「逆襲のシャア」の正統的な続編であるからには、当然、アムロ・レイとシャア・アズナブルという二つの中心から逃れることはできない。
歴史は繰り返す。アムロ・レイとシャア・アズナブルにとってのファムファタルとしてのララァ・スンのように、「逆襲のシャア」ではクェス・パラヤが現れた。今度はブライト・ノアの息子、ハサウェイ・ノアとシャア・アズナブルとの間に。そして奇しくもララァのように卓越したニュータイプであったクェスは、ララァがシャアをかばって死んだのと同様に、ハサウェイをかばって死んだ。そして、「閃光のハサウェイ」にも、ハサウェイとそのライバル関係となるケネス・スレッグとの間にギギ・アンダルシアなる謎の美少女が現れる。歴代のファムファタルのように二人の男の間を軽やかに行き来する彼女は、まさしくララァやクェスである。
「逆襲のシャア」ではシャア・アズナブルは「地球を汚染し続ける人々を粛正するため」(公式サイトより)にアクシズという小惑星を地球に墜落させ、地球から人類を追い出そうと画策した。しかしおそらく、こんな大文字のイデオロギーのためではなく、すべては「アムロ・レイに勝つため」という子供じみた思想がシャアの根底にあるように思える。クェスという年端も行かぬ少女を口説いたのもアムロのもとにいたクェスを奪いたい、という「お前のものはおれのもの」的な姿勢だろうし、強化人間ギュネイ・ガスの「ララァをアムロにとられたから、大佐はこの戦争を始めたんだぞ」、そしてなにより、クライマックスでシャア自身がアムロに語る「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ、そのララァを殺したお前に言えたことか!」のセリフからは、お前に勝ちたい、という気持ちとともに母を求める大人になれなかった大人の姿が垣間見える。地球圏を変えようと画策していた革命者は外見だけは立派な子どもであった。
そして、「閃光のハサウェイ」。ハサウェイは革命者「マフティ・ナビーユ・エリン」として、環境汚染を続ける人類に対して明確なノーを突き付け、その腐敗の原因である地球連邦軍に対して蜂起しテロを起こしている。ほぼシャアと同じイデオロギーを持ち出し革命を成功させようと試みているが、シャアとは違い、掲げたイデオロギーを心から信じている節がある。
ファムファタルたる資格をもつ奔放な少女ギギ・アンダルシアの存在と、崇高なイデオロギーを掲げそれに邁進する革命者たるハサウェイという設定は、すこし古臭く感じるのも確かだ。だれもが信じうるイデオロギーなどもはや現代においては皆無であるし、「男を惑わす少女」というモチーフも使われ過ぎている感がある。
しかし、3部作の1作目たる本作でその古臭さを打破しうる破れ目があるのも確かだ。今までの作品において「ニュータイプ」という、一般人(ガンダムっぽくいえば「オールドタイプ」)からすると雲の上の人類がテーマであった。すなわち、地に足がついていない世界の話なのである。超人的な交信を行う彼らには、落下するアクシズを止めようとしてもオーバーロードして死んでしまう僕らからすれば理解不能である。その点、「閃光のハサウェイ」ではハサウェイにわざわざ「ニュータイプなどいない、教科書で習っただろ」と言わせているように、「ニュータイプ」という概念を極力排している。
例えば、ララァやクェスに連なるギギは「他人の考えていることがわかる」という超人的な才能を持つが、それは卓越した観察眼によるものであるという描写がなされ、さらに、モビルスーツの市外戦に巻き込まれた際はただの逃げ惑う人々のうちの1人である。
つまり、「閃光のハサウェイ」という映画は、(あまり好きな表現ではないが)「普通の人々」視点のガンダムである、といえそうである。モビルスーツ戦を逃げ惑う人々からの視点で描いたのは慧眼であると感じた。見下ろす視点からの描写だらけのガンダム作品が多かっただけに見上げる視点の戦闘描写はとても新鮮に感じた。
崇高なイデオロギーに関しても、ハサウェイがタクシーの運転手と行う議論の場面は重要だと考える。ハサウェイは1000年後の地球を考え人類は滅びるべきだ、と説くが、タクシーの運転手は「そんなことより明日の飯よ」と答え、ハサウェイはそれに答えることができない。その後、自分の組織へと戻る帰り道、いつテロが起こってもおかしくなく、地球連邦軍による圧政がまかり通る市井を通っていく。大文字のイデオロギーなど通用せず、必要もない生活を肌で感じながら孤独に歩く場面がある。ハサウェイはそこで何を感じ何を考えたか。1作目である今作ではハサウェイは何も語らない。
今までのガンダムの文法であればニュータイプの資格を持つハサウェイにギギにその資格を与えない。英雄の系譜をひくハサウェイであっても、だ。そんな「普通の人々」の大文字のイデオロギーによる革命はどうなっていくのか。ぼくはガンダムの文法の破れ目に期待しつつ、次作を待つことにしたい。
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