遠野遥『破局』感想 コンプライアンス・ゾンビとしてのぼくら

 研修で講師が言っていた。

「コンプライアンスは今後、さらに重要になってくるでしょう。コンプライアンスは狭義には法令遵守ですが、現在はさらに広義に捉える必要があります。法令を守るだけではなく、”世間”が納得し、理解を示してくれるよう、説明責任を果たしていく、そのことが運営において大切なのです」


 その後様々な判例を持ち出し、この場合は無罪、この場合は有罪だったと守るべき世間の目の代表としての裁判官の判決を紹介した。そのほとんどは有罪であって被告側、つまり運営側に過失があったという判決である。それぞれの判例にはしょーじき納得できないようなものも混じっていたが、判決が出て、判例という「規範」が示されてしまった以上、「遵守」するほかない。有罪になるのはイヤだからね。


 そういえば、たったの30分のあいさつのためだけに片道2時間半かけてわざわざ行ったとき、特に労いの言葉もなく(そもそも呼びつけた癖に30分で帰すという扱いが非常識であるが)「帰り道は気を付けてね、スピード違反で捕まっちゃうと大変よ」とトップに言われたのだった。そう、ぼくの職業はスピード違反で経歴に一生ついて回る傷がつく。まあ、その理屈はわかるのだが、呼びつけておいてその言葉で送り出すのってどうなのよと思わないこともない。


 近所の本屋に行ったら貼ってあった。「「社会通念上のマナーに反する行為」をする方についての入店は固くお断り」されてしまうらしい。コロナ禍の今、マスクをしないことは「社会通念上のマナーに反する行為」に分類されそうだ。今日、使い捨てマスクが切れて布マスクも干していたのでマスクをせずにスーパーに行ったら、すげー視線を感じた。口を真一文字に結んで歩いているぼくは、「口を閉じる」ことに意識を向けすぎていることに気付いて悲しくなった。


 チワワは四本の短い足をせわしなく動かしながら、前方の確認を怠り、私の顔をじっと見ていた。車の窓ガラスが、私たちを隔てている。私が見るからチワワのほうも私を見るのだろうと考え、前を向いた。前の車は四角く、大きな鼠のぬいぐるみがやはり私を見ていて、ナンバープレートに「ち」と書かれていた。横を見ると、チワワはまだ私を見ていた。そのうちに車が動いたので、チワワはすぐに見えなくなり、私はもうチワワの心配をしなくて済んだ。

――『文藝 2020夏号』17ページ


 『破局』の主人公は「見られること」に敏感である。人ではない「チワワ」や「ぬいぐるみ」にまで見られているという意識を持ってしまうのだから、いわんや人間をや、であろう。あなたやわたしの行動が正しいかどうかは、講師風に言えば「世間」が決め、本屋風に言えば「社会通念」が決める。「世間の目」という言葉が示す通り、輪郭の掴めない「世間」や「社会通念」が分かりやすく現れるのは誰かの視線であろう。主人公はだから、つねに「世間」や「社会通念」に反しないよう行動しているといっていい。内心は違っても。


両隣を男に挟まれた席と、両隣を女に挟まれた席が目に入り、女に挟まれた席に決めた。
 左の女は長いスカートを穿き、携帯電話に「豚野郎」と蛍光で大きく書かれたシールを貼っていた。右の女はショートパンツを穿き、脚を露出させていた。私は席と席が近いことにかこつけて、この女にわざと脚をぶつけようとした。が、自分が公務員試験を受けようとしていることを思ってやめた。公務員を志す人間が、そのような卑劣な行為に及ぶべきではなかった。

――『文藝 2020夏号』24ページ


 主人公の行動原理はまさしく「社会通念」を守ることである。だから彼の行動は(ラストを除き)コンプライアンス的な観点から間違いなく正しい。誰かの考えていることなど分からないのだから、主人公の彼は非常に模範的な人物に見えるだろう。しかし、彼は「規範」や「言いつけ」やどこかできいた「ライフハック」「啓蒙」でがんじがらめになっていて、その中身は空虚である。彼の言葉を借りれば「ゾンビ」である。


「俺は現役だったとき、実際に自分をゾンビだと思う込むようにしていて、これはけっこう有効だったと思ってる。ゾンビだから何度でも立ち上がるのは当然だし、ゾンビは痛みや疲れなんて感じない。死んでるわけだから、何もわからない。自分よりでかいやつにタックルするのは怖いかもしれないけど、そういう恐怖もなくなる。ゾンビは怖いとか思わないから。むしろ怖がられるほうだから。銃を向けられたってまったく怯まないんだ、でかいやつが走ってきたくらいで怖いはずないだろ? ゾンビは――」

――『文藝 2020夏号』39ページ


 規範を守ることに腐心する空虚な主人公にとって、唯一といっていいほど思想を持って打ち込んでいることがラグビー(の指導)である。勝つことが至上目標であるスポーツにとって彼の考え方やその練習メニューは非常に妥当だ。彼の練習はサディスティックに過ぎるきらいが確かにある。そのつらさの乗り越え方としてのアドバイスで登場した「ゾンビ」だが、なんだか、主人公の行動原理そのものを現しているように思えてならないのである。


 一見見た目は人間と同じでも、その行動原理は「社会通念」が通底していてすべての行動が「社会通念」上正しくなる、いわばコンプライアンス・ゾンビとでも名付けたくなるような主人公。その異常性はしかし、主人公の内面を描く一人称小説だから明らかとなり、外から見れば異常でも何でもない。だから、ゾンビ。そして、このコンプライアンス・ゾンビにだんだんと自分が変態していることを発見するのである。


 Twitter上には「ああした方がいい」「こうしてはいけない」などといった「ライフハック」(出来の悪い)「啓蒙」に溢れ、Youtubeの広告では「ハゲはだめ」「デブはだめ」「もじゃもじゃはだめ」とサブリミナルのように言い聞かせられる。「こんな男(女)は嫌われる」と指針がWeb上のホームページでまとめられ、コロナ禍によってマスクをつけないでいる人・「三密」とやらを守らない人・「新しい生活様式」とやらを守らない人は人間扱いされない。人間に回復するためには「世間」の皆さまに謝罪をしないといけない。


 無数の禁止事項・推奨事項に取り囲まれているぼくらは、自然とその禁止事項・推奨事項に則って行動しているに違いない。『破局』の主人公はそのことに自覚がある(から言語化できる)が、現在の我々は「この規則に従っている」という自覚すらないままその行動を選び取っているに違いない。それは、とても不毛で貧しいことのように思える。しかし、もう僕らにはゾンビになる以外この世界を生きていくことはできないのだ。


 とても息苦しい。未成年が喫煙している描写のある小説を読んで、鬼の首を取ったように「こいつ、未成年のくせに喫煙してるよ笑」と授業中につぶやいた生徒がいた。吸った後の体臭や口臭の匂いが耐えられず「三次喫煙」と名付け、校長に謝罪させた生徒会長が京都にいるらしい。東京でマルチみたいに健康を売っているあいつは元気にしているだろうか。素晴らしきかな、遵法精神。その先に待ち受ける未来は何色だ。


 この小説の「破局」は恋人・灯との破局を現しているのだが、しかし、主人公との「破局」は恋人関係にとどまらない。一連の「破局」が主人公の思想が全面に現れていたラグビーとの関係から始まっていることには注意を払った方がよさそうだ。


 練習後、私は佐々木の後について歩いていた。いつものように佐々木の家に行き、肉を食わせてもらうつもりでいた。約束こそしていなかったが、それは毎度のことだった。先程から何度も腹が鳴り、準備は万端だ。もちろん、今後の方針についてもじっくりと話し合わないといけない。しかし佐々木は申し訳なさそうな顔で、今日は肉はなしだと言った。(中略)
 佐々木が選手たちのことなど考えていないと、これではっきりした。

――『文藝 2020夏号』62ページ


 コンプライアンス・ゾンビであるぼくらの「破局」は、自分が「コンプライアンス」など気にせず好きに・自由に行動している範疇の破れ目から生じるのかもしれない。過度な規制・ゾーニング・検閲・ポリコレ・ルール・マナーがその領域にいつ侵犯してくるかわからない、いや、もうすでに内在されてしまっていてるのかもしれない。


 そんな息苦しさから逃走するためにはどうしたらよいのか。肉体と精神の健康増進が目指されているこの社会において、そのためには寝るしかなさそうだ。夢の世界に逃げ込むには、ただ、目をつむればよい。


警官が、私の体を優しく押さえていた。彼の手はとても温かく、湯につかっているかのように、心地よかった。私はこのまま、眠ることに決めた。私はいつだって、眠りたいときはすぐに寝付くことができるのだ。

――『文藝 2020夏号』72ページ


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